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アルジェリア民主人民共和国政府・記念祝祭準備委員会より、元読売新聞論説委員谷口侑氏に革命決起周年記念賞を授与

この度、元読売新聞論説委員谷口侑様がアルジェリア民主人民共和国政府・記念祝祭準備委員会より、革命決起周年記念賞を授与されました。
4月27日、在京アルジェリア大使館レセプションホールにて、授与式があり、アマール・ベンジャマ駐日アルジェリア大使が、谷口氏の胸にこの格式のある勲章をつけ、お祝いの言葉を述べた後、谷口氏からも答礼がありました。その後、牟田口義郎氏による乾杯で宴が開かれ、谷口氏の功績を讃える声が出席者の方々からあがり、また、一同、アルジェリアの思い出話、近況、などについて話は尽きることなく、思い出に残る夕べのひと時でした。


「わたしは生涯一介のジャーナリスト兼教師に過ぎず、アルジェリア問題専門家でも研究者でもありません。 そのわたしに今回「アルジェリア革命決起50周年記念賞」が授与されたことは、予期せぬことであり、身にあまる栄誉であります。「革命当初の苦しかったときにアルジェリアを援けてくれた人々」に対するこの賞に値する人々は、ほかにいらっしゃったのです。 アジア・アフリカ独立闘争に共鳴して日本で支援活動を繰り広げた人々を挙げるとすれば、政治家の北村徳三郎、宇都宮徳馬両氏や、アジア・アフリカ連帯委員会事務局長だった淡徳三郎氏の名前がまず浮かんできます。 でも、これらの人々は、いずれも故人となっています。 そこで、当時、まだ大学生だったわたしが、来日したアルジェリア人学生の活動を支援し、さらにアルジェリア民族解放戦線極東代表部設立に協力したことを高く評価してくださったのでしょう。 アルジェリア人の義理堅さには敬服せざるを得ません。 以下は、アルジェリア大使館での授与式で、アマール・ベンジャマ大使が記念賞授与のあいさつをされたものに対するわたしの答礼のあいさつです。」

授賞式での答礼挨拶(要約)

2005年4月27日アルジェリア大使館にて
恵泉女学園大学講師 谷口 侑

大使閣下、ご列席の皆様
本日、ここにアルジェリア政府より勲章を授与されますことは、長年にわたり、アルジェリアとの友好と連帯のつながりを持ってまいりました私にとっては、全く予期せぬことであり、身に余る光栄に存じます。心より御礼申し上げます、

 時の経つのは早いもので、私が、来日したアルジェリア大学生二人と出会ったのは、かれこれ半世紀近くも前のこと、より正確に申し上げますと、48年前のことになります。1957年6月初めに開かれた全学連の第十回定期大会に、フランスに対し独立戦争を戦っているアルジェリアの学生組織、アルジェリア・イスラム教徒学生総連合会(UGEMA)の副書記長ショアイブ・タレブと書記局員ムスタファ・ネガディの両氏が招かれ、大会で演説しました。戦うアルジェリアからの代表が日本を訪れたのは、これがはじめてでした。

 当時、わたしはまだ21歳で、東京外語大学フランス語科の3年生でした。全学連から「われわれには金が無いから、プロの通訳は雇えない。タダで働いてくれるフランス語科の学生はいないか?」という依頼でした。幸運に恵まれたアルジェリア問題との出会いと言えましょう。

 わたしは、もう一人の級友とともに、二週間足らずでしたがアルジェリア人学生の世話をし、各地での講演会や、政党組織、労働組合、そしてマスメディアとの話し合いを精力的にこなしました。当時、日本ではまだアルジェリア問題の深刻さがよく理解されておらず、フランス贔屓のインテリたちにとっては、作家アルベール・カミュの作品『異邦人』や、戦前のジュリアン・デュヴィヴィエ監督作の映画『ぺぺ・ル・モコ』に描かれたアルジェリアでしかありませんでした。そんな雰囲気の中で、二人はめげずに、本当によく革命戦争の大義について訴えて回ったと思います。そういえば、全学連の大会で、わたしたちは一緒に、革命戦士が祖国の解放のために命を捧げると誓う歌『カッサマン』を歌った覚えがあります。この革命の歌が日本に紹介されたのは、これが初めてでした。ご承知のとおり、『カッサマン』は現在のアルジェリア国歌です。

 わたしは、彼らの愛国的情熱に心を動かされ、アルジェリア問題について、もっと深く勉強しようと思い立ちました。勉強のかたわら,わたしは、フランス語科の研究誌や、大学の学生新聞にアルジェリア戦争についての小論文や記事を書きました。修士論文のテーマも『アルジェリア戦争の歴史的背景』を選びました。

 そんなことから、1958年春、東京に、「アルジェリア民族解放戦線(FLN)極東代表部」を設置しようとの動きが出たとき、日本アジア・アフリカ連帯委員会からの依頼で準備作業に参加しました。FLNからは、元アルジェ市助役の法律家アブデラマーン・キワン氏が派遣され、のちにやはり法律家のアブデルマレク・ベナビレス氏が合流しました。ベナビレス氏は、アルジェリア独立達成後、初代駐日大使として東京に赴任して来られたことは、皆様ご存じのとおりです。わたしは二人とともに日本のメディアのインタビューに応じ、講演会で独立戦争への日本の支援を訴えました。
まず取り組むべき急務は、民族解放戦線とアルジェリア戦争について各界に知らせるためのニュースの発行でした。わたしは、翻訳だけでなく、印刷所との交渉、校正刷りのチェック、帯封をかけての発送、と、目の回るような忙しさでした。日本語版のほかに、フランス語版も出す必要があるので、どうしてもフランス語が出来て、仏文タイプの打てる人が必要になりました。そこで、友人で、早稲田大学大学院仏文科で修士論文を準備していた女子学生に助力を頼みました。彼女は、当時の学生としてはめずらしく、フランス語文字配列の手動タイプライターを持っていたのです。
こうして、ここにある「アルジェリア・ニュース」第一号(1958年9月25日付)が日仏両文で刊行されました。その時の喜びを忘れることが出来ません。今夜、ここにその時の女子学生も列席してくれています。わたしの妻、正子です。

 1959年春、わたしは大学を卒業し、読売新聞社に入社しました。初めのうちは「アルジェリア・ニュース」を手伝っていましたが、記者稼業が猛烈に忙しく、ついに断念せざるを得ませんでした。でも、1962年、エヴィアン協定の成立と、アルジェリア民主人民共和国独立実現はこの上ない喜びでした。

 1968年、わたしは読売新聞社のパリ特派員としてパリに赴任、アルジェリアの動きを身近に見ることができました。そして1970年2月、わたしはレバノンのベイルートに向かい、パレスティナのさまざまな解放組織について取材することになりました。なんと、そこで、わたしは、今はレバノン駐在アルジェリア大使のポストについている旧友ショアイブ・タレブ君に再会することができたのです。彼は、親切にも、さまざまのパレスティナ解放組織に紹介してくれました。「これはアルジェリアの友人です」との彼の口添えがあると、まるで魔法のカギのように全ての扉がわたしの前に開けたのです!

 1971年初め、私は初めてアルジェリアに行きました。当時、アルジェに拠点を置いている世界中の民族解放闘争組織について取材し、『世界の民族解放運動の聖域アルジェ』と題する続き物を書くためです。そのアルジェで、私は、いまや人事院の総裁のポストに収まっているキワン氏に再会することが出来ました。

 1973年9月、わたしはパリからアルジェに飛び、非同盟諸国首脳会議を取材しました。そこで、ショアイブ・タレブ氏や、アブデルマレク・ベナビレス氏に再会しました。また、1975年にはまたアルジェに戻り、現職の仏大統領としては初めてアルジェリアを公式訪問したジスカール・デスタン仏大統領の訪問を取材しましたが、独立戦争当時のことを偲びながら、深い感慨を覚えました。

 1980年10月、わたしはアルジェリアのアル・アスナム地方を襲った大地震の被災地入りする最初の日本人記者の一人として現地を訪れました。

そして、昨年2004年12月、わたしは日本を公式訪問中のアブデルアジズ・ブーテフリカ・アルジェリア大統領とお目にかかる光栄に浴しました。その時、わたしは、大統領に、日本とアルジェリアの学生の間の連帯感は1957年にすでに生まれていたのだ、とお伝えしました。

 正直に申し上げますと、わたしはある時期、アルジェリアが経験しつつあるさまざまな試練を見守りつつ、不安にさいなまれたこともありました。でも、今は違います。ブーテフリカ大統領は、国連大学の講演会で、はっきりと申されました。――「アルジェリアは今や動乱から解放され、国家の革新という大事業に取り組んでいます」と。わたしは、そのことをうれしく思います。

大使閣下、
大変長くなりましたが、これがわたしとアルジェリアを結ぶ友好と連帯の長い歴史でございます。

ご静聴、ありがとうございました。


谷口 侑(すすむ)略歴
1936年、中国長春生まれ。 1959年東京外国語大学フランス科卒、読売新聞社入社。パリ、ロンドン、ニューヨーク特派員、編集委員、調査研究本部主任研究員などをつとめ、2000年退職、2000−2004年、富山国際大学人文社会学部教授。2000年より恵泉女学園大学講師、現在に至る。