第19章 国造りの苦しみ :1962年〜1973年頃(25〜36歳頃)
農業指導員から教師に
1962年の10月は、アウレフの学校の男子学級と女子学級に着任するそれぞれの教師たちの到着と共に始まった。アウレフの郡長は、彼らの着任を承認する書類にサインした。この一事をもって、巷に流れていた、フランス式の学校が廃止されコーラン学校がそれにとって代わるという噂に終止符が打たれた。しかし、1962−1963年度(1962年9月〜1963年8月)は、混乱のうちに終わった。フランス人教師たちが帰国した後の空隙は中々埋まらなかったのだ。実際のところ、学校は全くの機能不全状態だった。こうした中、私のところに、今の仕事を辞めて、新生国家のため教職に就く気はないかとの打診があった。私は承諾し、採用試験を受けにエルゴレアへ行った。結果は合格だった。次に、ブゼリア(Bouzerriah)の師範学校に行き、授業の方法を覚えるため3か月の集中講座を受けることになった。
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第20章 沙漠の洪水(前編) :1965年(28歳)
概要
1965年1月初旬、この世の終わりのような豪雨がアウレフを襲った。当地では水は極めて貴重で、我々は一滴一滴を大切に使って生きて来た。しかし、皮肉なことに、普段なら有難いことこの上ないはずのその水が、洪水となって我々を襲ってきたのだ。何年も干上がっていたウエッド(涸川)に水流が蘇り、濁流となって町まで押し寄せた。何百年来変わらず存在し続けて来た堅牢なフォガラでさえ、一部の壁が崩れ落ちてしまった。電話線が寸断され、近隣の町へ通じる道路も泥の中に埋まり、一時アウレフの町は外界から完全に孤立した。町の家々は、粘土を干し固めただけのレンガで出来ていたので、一つの例外もなく溶けて崩れた。住むところを失った人々は、ラジオ局、発電所、気象観測所、病院など数少ないコンクリート製の建物に難を逃れてひしめき合い、そこで何週間も非難生活を余儀なくされた。
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第21章 沙漠の洪水(後編) :1965年(28歳)
外部へ急を知らせる
6日目か7日目頃になると、大地はまだ湿り気を帯びていたが、もう沼のような状態からは脱していた。道路もやっと通行可能となった。当地の事態危急の知らせは、東のインサラーからも西のレガンヌからも同時にアルジェへ発せられた。政府はようやく、千キロも彼方の沙漠の真ん中を洪水が襲ったことを知ったのだった。8日目の1月15日、我々はラジオで、アルジェの政府がアウレフを中心としたティディケルト地方に自然災害による非常事態宣言を発令したと聞いた。政府がやっと当地の事態を把握したのである。アウレフは災害指定地域となった。ラジオは、政府は閣僚の一人を、被害状況の確認のため現地に派遣するとも言っていた。
この頃、当地の住民は皆ムスリムであるはずなのに、飢えのためか、コソ泥が横行するようになった。兵隊が町を巡回し、怪しい連中を見かけると銃を空に向けて撃って威嚇した。
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第22章 教師として議員として :1969年〜1970年代前半(32歳〜37歳頃)
NHKのアウレフ取材
日本の国営テレビNHKがアウレフへ取材に来ることになった。小堀教授の推薦を受けて、私も取材に協力した。フォガラとアウレフ地域を対象としたルポルタージュである。ロケは一週間以上に渡って展開された。
東京大学の地理学教授、小堀先生の、アウレフ地域とフォガラに関する著作が出版された後(訳注:中央公論社『サハラ沙漠』1962年)、NHKが当地の地下水利用システムに関心を持ち、これを映像に収める企画が持ち上がった。私も1961年10月小堀教授がアウレフにやって来た時のことはよく覚えていた。フォガラを調査するため、私たちは二週間以上行動を共にした。その後1969年になってから、NHKはアルジェリア国営放送に打診し、共同でアウレフのルポルタージュを作成し、出来上がったフィルムを両国で同時に放映することを提案した。
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第23章 息子アブベクールのこと(前編) :1974年〜1975年(37歳〜38歳)
善意の人、ハンス医師
1970年代初頭のこと、アウレフに一つ嬉しい出来事があった。スイス人医師のハンス・エルザム(Hans Ehrsam)さんが、アウレフの病院に着任したのだ。彼は、病気や怪我で苦しむアウレフの人たちのために、自ら買って出てここの病院で働くことに決めた。きっかけは、彼が家族と共に、サハラ以南のある国からスイスへ戻る道中、アウレフを経由した時に始まる。家族の一人が具合が悪くなり、病院へ行ったのだが、そこでハンスさんは、病院に医師がいないことに驚いた。この時彼の心に、近い将来、この地の人々のために医者として戻って来よう、という考えが浮かんだ。彼はアウレフに戻ってくる途中、ガルダイアで一人の体に重い障害を負った子供を見つけ、その子の家族の了解を得て、アウレフまで一緒に連れて来た。そして、その子を身の回りの世話をし、躾けをし、学校にも行かせた。
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第24章 息子アブベクールのこと(後編) :1974年〜1975年(37歳〜38歳)
大叔父の昔話
息子のアブベクールを入院させた後、私は、アルジェリアへ帰る前に、パリにいる母方の大叔父モハメッド・ベン・カドゥールに会いに行くことに決めた。この大叔父は、1911年頃、私の父がまだごく小さかった時にアウレフを出て行った。私は、以前に2回フランスを訪れていたが、いずれの機会にも大叔父には会えなかった。1952年に初めてフランスへ行った時は、私はまだ15歳の子供で、滞在地のオセールから160キロも離れたパリへ出かけていくのは無理だった。また、2度目に農業局の研修でフランスへ行った時も、途中で抜け出すことができなかった。従って、今回はなんとしても大叔父に会いに行かなければと思ったのだ。それに休暇も3週間ほど残っていた。
大叔父はアウレフを出る時、ラクダを持っているシディ・ムーレイ・ゼダン(Sidi Moulay Zaidane)という男と一緒に旅立ち、インサラーを経てフォガレト・エズーアまで一緒に行った。
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第25章 平和について想う :1974年〜1981年(37歳〜44歳)
バーゼルのカーニバル
前章の息子アブベクールの入院の顛末のところでは詳しく触れられなかった、私のヨーロッパの友人たちのことを、ここで少々述べたいと思う。1974年2月息子を入院させ、大叔父を見舞った後、私はスイスのバーゼル(Bâle)へ行った。友人のスイス人女性、ジェルメンヌ・ヴィンテルベルグ(Germaine Winterberg)さんに会い、バーゼル博物館のアウレフ展を見るためである。彼女は1967年4月のこと、学術調査のためにアウレフにやってきて、二週間ほど私の家に泊まった。彼女は、当時バーゼル博物館で学芸員をしており、当地の手工芸・歴史・風俗・俗信などを調査するため、私に協力を求めてきたのだ。この時の調査と収集はかなりの成果を上げたため、後にバーゼル博物館は特別に展示室を設けることを決定し、アウレフの多彩な生活様式や文化を示す品々と、それらの説明を展示するために、かなり大きな部屋を割り当てた。
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第26章 〜番外編〜 沙漠の一大経由地アウレフ
往年の女性パイロット
何世紀もの間、アウレフと外界をつなぐ手段はキャラバンしかなかった。フランスはサハラを征服した後(訳注:1900年初頭)、アフリカ大陸におけるアウレフの地理的位置づけを考慮し、ここに国際空港を開設した。この空港はアルジェリアの独立まで維持された。ヨーロッパ諸国の多くはサハラ以南に植民地を持っていたが、これらの宗主国からサハラ以南の植民地へ向かう飛行機は皆、アウレフの飛行場で給油を行った。
1952年の、その出来事を私は今でも鮮明に覚えている。私たちの学校を独りの老婦人が訪れた。(訳注:当時著者は15歳。)背中の曲がった小柄なおばあさんで、杖を突いて歩いていたが、とても精力にあふれた人物だった。私は今でも彼女に会ったのが、つい昨日のような気がする。
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