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風と砂と水が伝えたこと 〜サハラのハジ家100年の回想録〜

アーメッド・エル・ハジ・ベン・モハメッド・ハマジ著
大月美恵子訳・編集・脚注


第Ⅲ部 結婚、子供たちの誕生(1953年〜1962年)


第12章 青年期T :1953年〜1955年前半(16〜18歳)

白衣修道会の訓練所へ

 1953−54学年度の新学期が近づいてきた。コロン・ベシャールの職業訓練センターの校長、白衣修道士会(訳注:1868年アルジェにて設立される。主にカビリー地方やサハラで布教を活動を行い現在に至る。1994年には同会の4人の神父がティジウズでテロリストによって殺害された。)のクロトフ(Krotoff)神父から、駐留軍の隊長のところに、私の入学を承諾するとの返事が来た。私は筆記試験を受けにコロン・ベシャールへ、また実技試験を受けにケナドサへ行った。幸い筆記試験に通り、その二日後に行われた器用さを見る実技試験にも合格した。その後、専攻分野分けが行われたが、私は機械工のクラスに決まった。訓練プログラムは15か月間続いた。私は意志を固く持ち一生懸命学んだので、生来の器用さも手伝って、理論でも実技でもいつも一番だった。校長のクロトフ神父や工房の他の先生たちも私のことを高く評価してくれた。
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第13章 青年期U :1953年〜1955年前半(16〜18歳)

置き去りにした運転手に一泡吹かせる

 6時に再びトラックに乗って出発した。荷台の枠からはみ出た荷物にもたれてという点は同じだったが、後ろに乗ったのは私一人だけで、あとは運転手と助手、それにもう一人の乗客が運転席のキャビンにいるきりだった。運転手はかなりの大男で名をラルビ・ルマスクリ(Larbi Loumaskri)と言った。トラックはだいぶ長い距離を走り、時刻は正午になった。サンドイッチを食べるため休憩し、再び出発して、私が置き去りにされたのとほぼ同じ地点へ到達した。その時、進行方向のはるか彼方に砂埃が舞い上がっているのが見えた。こちらに向かって走って来る車があるらしい。私の乗ったトラックは速度を落として停車した。運転手が降りて来て荷台によじ登り、私に言った。
「どうだ、調子は?」
はあ、大丈夫です、と私は応えたが、初めて人から気にかけてもらって嬉しくなり、すぐに、ありがとう、と付け加えた。
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第14章 青年期V :1955年後半〜1956年(18〜19歳)

アウレフでの無為の日々

 アウレフに帰ってはみたものの、当時アウレフには機械工の資格を生かせるような職場はなかった。これといった仕事が見つからないまま数カ月が過ぎた。シェイク・ベイ(Cheikh Bay)のメデルサ(Medersa)に、アラビア語文法を習いに通ったりもしたが、授業は週3回、一回1時間足らずしかなかった。メデルサでは私の他にアブデルカデル・バカディール(Abderlkader Bakadir)とモハメッド・ハムーダ(Mohammed Hamouda)という生徒がいた。1955年末の数カ月間、この閉塞感の中で私は少しずつ無気力になって行ったが、それではいけないと、気晴らしに何人かの同じ年頃の女友達と付き合うようになった。中でも特に私の気を引いたのはメサウダという女性だった。私は彼女の家に足しげく通った。
私たちの付き合いは真面目なもので、二人きりで会ったりなど、世間の規範に背くことは決してしなかったが、私達二人の間には段々と互いへの愛情が育まれていった。
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第15章 結婚騒動T :1957年〜1959年(20〜22歳)

フランス軍隊長の通訳に任命される

 駐留軍の隊長はアウレフ郡の郡長も兼任していたが、私が行政事務にも素質がありそうだと思ったらしく、農業局の仕事と並行して郡役所の仕事もするよう命令してきた。そういう訳で私は郡役所で統計事務と通訳の仕事をするようになった。カイドたち(訳注:元はイスラムの法官。この当時は地元社会での事実上の村長のような存在。)から行政府へ来る書簡はアラビア語で書かれているので、隊長に渡す前にフランス語に翻訳し、逆に隊長からカイドへの書簡はアラビア語に翻訳した。これらの仕事の他、私はアウレフの青年会議所の会頭にも選出された。地元では色々なアマチュア・スポーツが行われていたが、サッカーは特に盛んだった。私も、コロン・ベシャールの白衣修道会の職業訓練所では、サッカー・チームに入っていた。小さいころからやっていた訳ではないので、そう上手ではなかったが、サッカーが好きなことにはかけては人後に落ちず、一人でも多く人たちにこの楽しさを分かってもらおうと、地元の青少年たちにアウレフのチームへの参加を薦めて回った。
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第16章 結婚騒動U :1959年(22歳)

微かな変化の兆し

 1959年11月11日のことである。この日はフランスの重要な祝日で(訳注:第一次世界大戦の戦勝記念日)、アウレフでも記念祝典が開かれた。当時私たちは全員フランス国籍だった。当日は隊長夫妻や軍医夫妻の他にも、本土生まれの大勢のフランス人たちが参列していた。フランス人は皆、地元の人々に交じって楽しそうに見えた。彼らも、私とメサウダの結婚を知り、地元住民の間の人種差別の習慣に和解の兆しが表れたと喜んでくれた。祝典で隊長は次のように演説した。 「アルジェリアは間もなくフランスから独立するだろう。これは残念なことだと思う。私自身は、我々が分離するのに反対である。しかし、時が来れば、それに従うしかない。」 次に隊長は、多分私たちのことを言おうとしてのだと思うが、こう続けた。
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第17章 フランス領時代の晩秋 :1960年頃〜1961年(23歳〜24歳)

ソーシャルワーカーとして活動する

 私はフランス軍の隊長の下で一生懸命働いたので、隊長からの信頼も厚かった。仕事の性質上、私は多くのフランス人の中に立ち交わって働いていた。地元社会ではフランス語を使うことはなかったので、役所でのフランス人たちとの接触が、フランス語を上達させる唯一の機会だった。また、教養のある人々と話すと、自分の精神も豊かになっていくようで楽しかった。私は、フランス人同士が何か話していると、何か有用な表現が拾えないかと耳をそばだてたものである。自分がフランス人と話す時は、もし分からない表現などがあると、話を中断してでも、それを説明してくれるよう頼んだ。フランス人たちはよく、福祉とか、人道支援とか、家庭での躾などを話題に乗せていた。
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第18章 アルジェリアの独立 :1960年〜1962年(23歳〜25歳)

第一子誕生

 最初の子を妊娠中の妻メサウダは、まめにアウレフの診療所の医師の診察を受け、子供も順調に育っていた。1960年9月24日のこと、私が仕事から帰ると、メサウダはお腹がなんだか痛いと訴えた。彼女のお腹はまだそんなに大きくなく、私は産気づくにはまだ早いと思った。後で知った事なのだが、最初の妊娠ではお腹はそんなに大きくはならないらしい。そうと知らない私は、メサウダをなだめたが、痛みはどんどんひどくなっていくばかりだった。結局夜の11時ごろ、私は彼女を連れて歩いて、家から200メートルほど先の病院へ行った。当直の男性看護師は、歩いて病院の医師を迎えに行き、病院から400メートルほどの所に住んでいる医者は、これまた歩いて悠長に病院にやって来た。医師は病院に着くとメサウダを診察して言った。 「出産が始まるようだ。ただ、すぐに出て来るわけではないよ。もう何時間もかかるだろう。」そして、こう独り言を漏らした。 「初産では珍しくないが、どうも、難産になりそうだが…」
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