第1章 祖父の時代 :1880年代〜1900年代
人狩り:ハマジ少年奴隷商人に捕まる
事件が起こったのは1880年代のいつかだとしか分からない。ハマジ(Hamadi)少年は灌木の茂みの中で捕まった。
賊がその凶行に及んだ場所は、マリのモプチ(Mopti)の辺りだったが(訳注:トンブクトゥの南、南東でブルキナファソに接する)、当時マリはまだスーダンと呼ばれていた。犠牲となったこの子供は、アルジェリア南部のアウレフ(Aoulef)へ売られた。この話は人の口から口へと伝えられたものである。当時アフリカの原住民のほとんどは文字を知らなかった。この出来事も、ハマジ少年、つまり私の祖父がその妻ファトマ(Fatma)に語り、ファトマが次女で第三子のアイーシャ(Aïcha)に伝えたものである。
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第2章 ハマジの子から孫へ :1910年前後〜1940年前後
領主アーメッド・ダーハの最期
ハマジの婚礼の日に処刑されたこの人物は、軍団を率いてザウイエト・ハイヌーン地方を治めていたが、モロッコのスルタンによってアウレフの代官に任命されたスリティン(Slitin)という人物とは激しく対立していた。エル・ハジ・アーメッド・ダーハとスリティンは従兄弟同士で、しかもアーメッド・ダーハの妻はスリティンの姉妹だった。フランス軍の司令官は時間をかけてアーメッド・ダーハを観察し、人物を良しとして、彼をウーレド・ゼナン(Ouled Zennane)の大部族のカイド(訳注:イスラム法に基づく裁判権・警察権・徴税権を持つ地方官)に任命しようとした。アーメッド・ダーハは、家に帰ると、この吉報をすぐ妻に打ち明けた。しかし幸運は間もなく悲劇に変わった。スリティンの姉妹であるこの妻は、ことの次第をスリティンにばらしたのである。
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第3章 幼少期 :1939年頃〜1945年頃(2〜8歳)
飢饉の思い出
1939−1945年(2−8歳)は、私の幼少期の中で最も家が困窮していた時期である。戦争にイナゴの被害まで重なったのだ。イナゴの被害によって飢饉が起き、その影響は数年に渡って続いた。アウレフは死人がでるほどではなかったが、ティミムーンは深刻だったらしい。トゥアット、ティミ、グラーラ、サウラでも、深刻な食糧難に見舞われた。アウレフのナツメヤシ農園も相当に食い荒らされ、どの家でも主要な食物であるデーツを十分確保出来なくなった。市場でデーツの値段は目の玉が飛び出るほど高くなり、他の食料品も手の届く値段ではなくなった。何日も働いても、その賃金は、たった何キロかのデーツを買えばなくなってしまった。この頃は景気も悪く、若者でも糊口をしのぐ仕事を見つけるのは難しかった。
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第4章 幼少期T :1947年頃〜1949年頃(10〜12歳)
子供心に憤りを覚えた話
ある日人々が、ある男のゆるし難い不正行為について話しているのを聞いた。以下は、当時まだ小さかった私が、私なりに理解した内容である。それは1940年代の出来事だった。名前は生憎忘れてしまったが、その頃アウレフの有力者の中にある豊かな商人がいた。その男は、ベンドゥーラ(Bendraou)のフォガラに新しく一つのタルハ(tarha)(竪井戸)を追加する工事に出資することになり、契約にサインした。フォガラに関する伝統法は以下の通りである。フォガラの流量の計測は、新しい出資者、並びに、既存の利権者の代表者の立ち合いの下に行われ、そこのジェーマ(Djemâa)(慣習的行政区分)のシャヘド(Chahed)(イスラム法の公証人)が持つ台帳に記録される。流量はハバ(habba Zrig’)という単位で表されるが、1ハバは約8リットル/分に相当する。
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第5章 幼少期U :1947年頃〜1949年頃(10〜12歳)
ロバに蹴られる
割礼の後、学校に復帰してからは、私の勉強は速い速度で進んで行った。力も強くなってきたので、家族を助けて少し働くように言われた。コーラン学校に通うかたわら、授業の後や休みの日(木曜終日、金曜の午前中、水曜の午後が休み)、私はロバの背に家畜の糞を積んで農園に運んだ。これは、たやすい仕事だった。往きはロバの後ろから付いていき、ロバが脇にそれようとすると手に持った棒で正しい方を向かせ、還りは荷を下ろしたロバに乗って駆けて戻った。道で学校仲間に合うと、交代して乗せてくれとよく頼まれたものだ。空のロバの背に乗り飛び跳ねるように駆けさせるのは、実に楽しかったからである。同じようにロバを連れた友達に出会った時は、ロバの駆け比べをして楽しんだ。全くおもしろい遊びだった。
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第6章 幼少期V :1947年頃〜1949年頃(10〜12歳)
ぐれてタレブに折檻される
思春期に入った頃だったが、一時悪い仲間に入ったことがあった。隣の地区の不良グループが私にちょっかいを出してきたのである。彼らは全く自由に、親に叱られることなど恐れずに、したいことをしていた。私はそれを勇気だと勘違いし、彼らをかっこいいと思って、行動を共にするようになった。そして、時々コーラン学校を休むようになり、その頻度は次第に増して行った。タレブが私に休んだ訳を聞くと、父に家の手伝いをするよう言いつけられたとかなんとか嘘をでっち上げた。私は、次第に巧みに嘘をつくようになった。
私は、この自由が心地よくなり、一週間全然学校に行かないようになった。しかし、うわさはすぐ広まった。子供も女たちも、そして男たちさえも、一体どうしたのかと私のことを噂した。
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