国連大学 小堀 巖
歳月は人を待たずと言うが、私がフランス時代のMaison Blanche 空港(Alger)に足を下ろしてから早いもので40年の月日が経つ。その間、サハラのオアシス研究のため十数回も南部に足を運んだ。40年という月日は、私の人生の大半以上を占めるが、これまで研究を進めてこられたのも、アルジェリアの友人の協力があったからこそである。
1961年秋、空港から市内に入った私を迎えたのは、Casque Bleuのフランス兵達と、表向きは平静を装ったアルジェリアの市民達であった。約2週間のサハラ調査を終え、 へとへとになってアルジェに戻り、24時間眠り続けた。その夜訪れたカスバでは、住民達はチャイをご馳走してくれ、フランスの憲兵達は、旅券を見て日本人とわかると"どうぞお気を付けて"と静かに去って行った。しかし、夜ともなれば、プラスチック爆弾の炸裂音が聞こえ、翌朝の新聞にはアルジェリアを訪問したフランス要人の暗殺が載る、そんな調子であった。また、パリに戻れば、"O.A.S, Assasins!!"と"Algerie Francaise"の二派の怒号の中で、教員や労働組合のデモが続き、街に出た時私も危うく打ちのめされそうになったことがある。この時の緊張感と、一方で民衆の中に入れば怖くないという体験は、結果的に、後の大学紛争の折の学生との対応や、パリ日本館での異文化社会との交流において大いに役立った。
私が数十年来定点調査を続けているティディケルト(Tidikelt)のアウレフ(Aoulef)・オアシスでは、アルジェ大学のブナガ教授御夫妻やお弟子さん達、地元のハジ君一家などの心暖まる協力を得、オアシスの変容をつかむことができた。しかし、独立直後の数年間は、行政の手はサハラまでは十分に届かず(石油基地を除いて)、小学生は鉛筆にも事欠く状況であり、物流が悪くて日常生活に必須の茶さえ入手できないこともあった。そのアウレフも次第に発展し、1980年には日本の有償援助によるマイクロ・ウェーブ回線の鉄塔が建ち、電話が通じるようになった。ちなみに、同地は、フランスの原爆実験の場となったRegganから100キロほどしか離れていないため、放射能の影響によると思われる住民の発病もあったと言われるが、今になるまで具体的なデータの開示はない。そして、私が具体的に入り込んでいるアウレフ北方120キロのインベルベル・オアシスにも数年前に郵便局ができ、1ヶ月ほどかかって村人から手紙が来るようになった。ここで昨年植樹したナツメヤシの樹もかなり大きくなったという。実を結ぶにはあと数年かかるので、再訪したいものである。
一方、同国については、初代駐日大使ベンハビレス大使ご夫妻や、それを支えていたデバガ書記官(後の駐日大使)との交流も忘れられない。高輪光輪閣で開かれる独立記念日のレセプションや、銀座で行われた映画「アルジェの戦い」の試写会などは、1960年代の日本に住む私達にとって新鮮な体験であった。私は、アルジェに出かける度ごとにベンハビレス大使の私邸をお訪ねしたが、いつも暖かく迎えて頂き、夫人のいれて下さるミント茶はとても美味しかった。デバガ大使には、渡辺大使のご配慮で、昨春アルジェで再会できたが、出版されたばかりのタッシリ(Tassili)についての学術書を抱えて来られ、私を元気付けて下さった。また、1992年に「世界青年の船」で2ヶ月間生活を伴にしたアルジェリアの青年達との交流は今も続いている。 しかし、これら交流を結んでいる人々の中で、アルジェリアの共同研究者達の置かれている状況は決して容易なものではない。アルジェ大学の図書館を訪ねても、予算不足から蔵書は極めて不揃いでる。私のささやかなアルジェリアやサハラ関係の蔵書を見たある研究者は、そっくり持って帰りたいとさえ言っていた。さらに、フランス時代にはサハラ研究の中心であったBeni Abbesにあるサハラ博物館は、このまま放置しておいたら植物標本などが散逸してしまうかもしれない状況にある。
私は、日本とアルジェリアとの関係は、経済ばかりでなく、もっと学術文化面での地味な協力が必要であると思う。幸いにして、アルジェリアの政情も少しずつ快方に向っているように思われるので、それらの分野での二国間協力、さらには国際協力が一層進むことを期待し私も微力を捧げたいと思う。
私たちがお世話になったハジ家の女性達