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カリファグループ崩壊の軌跡

吉田 敦
よしだ あつし:
明治大学大学院博士後期、
パリ第1大学博士後期

カリファグループ崩壊

近年、市場経済の導入を進めているアルジェリアで彗星のごとく登場したカリファグループは、2002年の年間売上高17億ユーロ、約14000人を雇用する巨大な民間企業に成長していた。独立40周年にあたる2002年、首都アルジェでは、壁は白(アルジェブランシュ)とバルコニー、窓枠はブルーマリンに彩色され、奇しくもカリファ航空のカラーと同色であった。カリファグループはまさにアルジェリア国民にとって自国の誇るべき国際企業としての地位を確立していた。しかし2002年11月末以降、カリファグループは経営悪化が表面化し一挙に崩壊への道へ突き進む。カリファは何故このように急成長できたのか、また何故これほどまでにあっけなく崩壊してしまったのか、様々な憶測が飛び交うなか、現在(2003年6月末)に至ってもグループの全貌は解明されていない。以下ではアルジェリア国内外の各メディアで報道された「カリファ事件」の関連記事から若干の概説を試みたい。

カリファ総裁のプロフィール

 カリファグループ総裁となるカリファ(Rafik Abdelmoumen Khalifa)は、1990年に医薬品輸入会社(KRG Pharma)を設立した。当時アルジェリアでは年間約5億ドルもの医薬品を輸入しており、国営企業が輸入から生産、販売まで一手に引き受けていた。90年代初頭から開始された経済自由化の波のなかで、KRG Pharmaは医薬品の輸入を中心に急成長を遂げ、アルジェリアで最も有力な医薬品輸入会社となった ※1。後に「ゴールデンボーイ」、「タイクーン(大君:Taycoon)」といった数々の異名をもつことになるカリファはこのとき若干26歳であった。カリファが企業グループとして大きく成功する足がかりを得たのが、政府が金融部門の自由化を着手した1998年であった。同年、カリファはいち早く通貨・信用委員会に申請し、アルジェリアで最初の民間銀行カリファ銀行(El Khalifa)を設立し※2 、アルジェリアのサクセスストーリーの体現者として財界に頭角を現して行った。翌99年にカリファ銀行の子会社カリファ航空(Khalifa Airways)を設立※3、その後もレンタカー、ケータリングサービス、建設等 、多角的な事業展開を推進した。さらに2002年9月には、ケーブル、衛星テレビ局のカリファTV(KTV)をパリに設立した。国際的にカリファグループの地位が確立されたのは、2001年6月11日の欧州を代表するサッカーチームであるマルセイユ・オリンピックとのスポンサー契約である。スウェーデンの通信機器メーカーEricssonとの契約解除のあとカリファ航空はサッカー選手にロゴ入りユニフォームを提供、マルセイユ・オリンピックの全ての試合での広告権を手に入れた。同契約には4年間で1500万ユーロが支払われる予定で、2002―03年のシーズンまでは遅延なく契約金の支払が履行されていた。
  このようにカリファグループはここ数年で急激に拡大しており、グループ財政を支える巨額の出資金をめぐり様々な憶測が飛び交った。既に死亡しているカリファの実父(Laroussi Khalifa)は、独立戦争時アルジェリア共和国臨時政府(GPRA―Gouvernement provisoire de la R_publique alg_rienne)で武器調達担当相(Malg―Minist_re de l’Armement et des Liaisons g_n_rales)を務め、ベン・ベラ初代大統領時代には閣僚に就任していた。そのため、軍首脳部の口座名義貸しを行っているという説、また独立戦争時FLNが蓄えた資金をスイスに逃避させたとする説や、原油収益の裏金をリサイクルしているという説、さらには麻薬密輸入によるマネーロンダリング説もあった※4
  報道されるグループ資金源がいかなるものであれ、当時のアルジェリア国民の感情はカリファグループに好意的な反応を示していた。「モナコのギャラリーやパリの高級レストラン、ジュネーブのホテルを買いあさる連中とは違って、盗人であろうとなかろうと、少なくともカリファはアルジェリアへ投資している」というものであった※5

幹部逮捕から失墜へ

2003年2月24日21時30分、アルジェのブーメディエン空港でジャメル・ゲリミ(Djamel Guelimi―38歳、KTV社長)、グループナンバー2のサミ・カーサ(Sami Kassa―39歳、パリでのグループ代表、KRG Pharma社長)、サミール・ケリフ(Samir Khelif―35歳、カリファ航空バルセロナ支部長)の3人が合計200万ユーロを不正に持ち出そうとしたところを逮捕された。ゲリミは現金55万8,200ユーロと13の小切手(額面2万7,671ユーロ)を所持していた。同氏の釈明によれば、パリでのアパート購入資金、両親の入院費用にあてる予定であったとしているが、一方KTV側によれば、同社の従業員に対する賃金支払、TF1子会社であるスタジオ107の賃料支払、編集機材の購入資金であったと発表している。カーサは現金57万9,900ユーロを所持、KRG Pharmaの南仏工場(Vitrolles)へ送金予定であったと表明している。ケリフは現金81万440ユーロと8万8000ドルを所持しており、父親の遺産相続900億DAを不法に換金したもので、スペインの水利施設プロジェクトへ投資する予定であったと述べている※6
上記の幹部3人が逮捕される前にアルジェリア予審は2月19日、カリファ銀行を外国為替法違反で摘発し、カリファ総裁に対する最初の召喚状を発行している。幹部3人の逮捕後3月12日には拘束状が発行されたが、何れも無効に終った。なぜならカリファが定住しているイギリス(ロンドン)はアルジェリアと犯人引渡協定を締結しておらず、強制帰国を執行することができないためである。最終的にアルジェリア裁判所は3月26日、カリファ総裁に対する国際逮捕状の発行に至っている。3月31日、カリファ総裁はフランスの雑誌とのインタビューにこたえ、「アルジェリアでの報道は全て捏造である」と語った※7
危機発生以前、カリファはハイドパーク正面のドルチェスターホテルのスウィートに滞在していたが、現在は郊外の目立たないアパートに移転し、犯人引渡協定を締結しているフランスの高級アパルトマン(パリ)に住む妻子と会うこともできない日々を送っている。アルジェリアに帰国すれば海外不正送金の罪により懲役7年の罪が課せられる可能性があり、アルジェリアの大富豪は一転して、まるで指名手配されたイスラミストのような生活を送っている※8

カリファ銀行


  カリファグループの崩壊は、資金面の根幹を支えてきたカリファ銀行の経営悪化が大きな要因であった。その前兆となったのが2002年11月27日、アルジェリア銀行によるカリファ銀行の海外送金業務停止(貨幣・信用法155条)の執行であった。さらに2003年3月、銀行金融委員会(banking commission)はカリファ銀行を暫定監督下に置くことを決定した。同委員会は運営・管理に関する執行権限はすべて暫定管理官(Mohamed Djellab)に委託し、「リスクの有無に関わらず、法基準に従って適切な措置を講ずる」と発表した※9。同時期アルジェリア全土では同行の個人口座の解約が相次ぎ、グループ従業員による大規模なデモが展開されている。その後暫定監督官は、国営企業の預金解約を禁止、個人貯蓄に関しても口座解約は上限100ユーロに定めた。さらにカリファ銀行の経営状態、会計審査が行われ、臨時監督官は「経営調査が進むに従い明らかとなったのは、同行が悪党の巣窟であったということだ」と述べている※10
カリファグループの資金源に関しては上述したように様々な憶測が存在していたが、実際にカリファ銀行に査察が入ると新たな事実が浮上してきた。設立当初、カリファ銀行の資本金は600万ユーロに過ぎなかったが、同行は預金者を増やすために返金の公算なしに時には二桁台の高い利率を設定してきた。アルジェリアの他の公・民金融機関の最大利率5.25%と比較すると、同行の利率は破格であった。こうした戦略により100万以上の個人口座、数千の中小企業が同銀行の資金が集中し、集められた預金は輸入業務に融資されたが、その返済期間が遵守されることはほとんどなかった。加えてカリファ航空といったグループ子会社に対しては、収益率を全く無視した貸付融資が行われていた。アルジェ郊外のカリファ航空の1支店(Rouiba)だけで約100億DA(約1億ユーロ)の負債があると推定されている。したがってカリファグループの資金面を支えていたカリファ銀行の事実上の業務停止は、グループ傘下の他の部門へ極めて深刻な影響を与えることになる。ウヤヒア首相によれば、カリファ銀行の救済にかかる経費は15億ユーロと推定され、「事実上再建不可能」と述べている※11

カリファ航空

カリファ航空は1999年設立以来フランスに住むアルジェリア人を中心に利用され、2001年には30機体、年間100万人以上の乗客、3億4000万ドルの売上を記録している。グループ崩壊に至る直前まで同航空会社は国内・国際線シェアの75%に拡大することを目標にボーイング777(2機)、ボーイング747(1機)を含む計50機の機体を配備し事業拡大を予定していた。しかし、航空機の大半はリース契約によるもので、ひとたび融資が受けられなくなると会社機能は麻痺状態に陥った。
アルジェのブーメディエン空港では4月4日以降、カリファ航空の就航が全面ストップしており、従業員1,500人が休職していた。賃金は2月以降支払われておらず、4月9日には従業員約200人が同空港で座り込みストを実施、同グループ代表が語ったところでは、「カリファグループ全体が倒産すれば約2万人が職を失うことになる。いかなる手段をもちいてでも雇用を維持する」と述べた。しかし、翌10日、運輸相のセラル(Abdelmalek Sellal)は、カリファ航空の無期就航中止を発表している。
一方、アルジェリア国営航空社長のブノウィ(Tayeb Benouis)は4月21日、解雇されたカリファ航空従業員を雇用する可能性を否定した。それどころか、カリファ航空の倒産を受け、4月中に新たに17機の短・中距離機体を購入すると発表し、他の航空会社(AirLib、Aigle Azur、Air Littoral)との市場競争における強化体制を図る見込である※12

カリファTV(KTV)

2002年9月3日、カリファはフランスにおけるケーブルテレビ、衛星放送の認可を得るためにオーディオヴィジュアル監査役会(CSA)に申請し、“フランス発、地中海両岸を結ぶ国際放送”という謳い文句で一躍フランスメディア界の寵児となった。
前述したアルジェ空港で逮捕された幹部3人にカリファTV社長ジャメル・ゲリミが含まれており、その直後、カリファの叔母にあたるジャザエリ(Djaouida Jazaerli)が社長に就任したが、1ヵ月後の3月31日、ポール・アジェナウエ(Paul Agenauer)が新社長となった。
すでにKTVでは2月以降、過去に録画された番組しか放映しておらず、2〜3月の従業員に対する賃金も支払われていない。4月上旬、従業員約40人が商業裁判所(Bobigny:パリ郊外)に賃金支払要求を申し出ている※13。4月8日、ポール・アジェナウエ社長は役員会議を経て倒産を宣言、4月9日に商業裁判所に倒産宣告のため出頭している。この時、同社長は従業員の2月分賃金に関しては近日中に支払うことを確約した※14。ルモンド紙によれば、ロンドン在住のカリファはパリの顧問弁護士に392,904ユーロを送金し、4月14日193人の従業員に2月分の賃金として分配されたとしている。なお3月分の賃金は依然支払われておらずその詳細は明らかになっていない。最終的に4月28日、KTV従業員193人の内179人が解雇された※15

参考:カリファグループ略年表

年次
事項
1990年   医薬品輸入会社KRG Pharmaを設立。
1998年   カリファ銀行(El Khalifa)を設立。
1999年   カリファ航空(Khalifa)を設立。
2001年 6月11日 カリファ航空、オリンピック・マルセイユとスポンサー契約。
2002年 9月3日 カリファTV(KTV)をパリに設立。
  11月27日 銀行委員会はカリファ銀行の海外送金停止を宣告。
2003年 2月19日 カリファ総裁に対する召喚状。
  2月24日 カリファグループ幹部3人、アルジェ空港で逮捕。
  3月3日 中銀はカリファ銀行を臨時監督下に。
  3月12日 カリファ総裁に対する拘束状。
  3月26日 カリファ総裁に対する国際逮捕状。
  4月10日 運輸相セラル「カリファ航空の無期就航停止」を発表。
(出所)各種資料により筆者作成



―― 注――

※1 2002年のKRG Pharmaの年間売上高は4000万ドル、200人を雇用し、アルジェと南仏(Vitrolles)に製薬工場があった。
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※2 カリファ銀行の2001年の売上高は4億ドルでアルジェリアの金融市場の35%を占めていた。
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※3 ドイツの建設会社Philip Holzmannの国際子会社を買い上げカリファ建設を開始する予定であった。
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※4 Le Monde, 2003.03.21
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※5 J.A./L'intelligent N。 2184, du 18 au 24 novembre 2002.
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※6 J.A./L'intelligent N。 2202, du 23 au 29 mars 2003.
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※7 Le Monde, 2003.04.08.
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※8 J.A./L'intelligent N。 2207, du 27 avril au 3 mai 2003.
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※9 APS, 2003.03.03
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※10 Le Monde, 2003.04.08
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※11 Le Monde, 2003.06.05
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※12 APS, 2003.04.23
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※13 Le Monde, 2003.04.02.
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※14 Le Monde, 2003.04.10
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※15 Le Monde, 2003.05.28
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