元アルジェ日本人学校教諭
垣見憲治(かけひけんじ)
私たちがアルジェ空港から飛び立ったのは、1986年3月下旬、もうあれから、17年が経った。これだけの年数が経つと、アルジェ滞在時の細かい記憶は次第に薄れてゆく。しかし、その「原体験」は脳裏にインプットされたままなのか、それ以来マスコミであろうが、ネットであろうが、「アルジェリア、アルジェ」という字が目につくと、私はかならず飛びついた。
これまでのところは残念ながら、その「ニュース」の内容は、悲しいもの、つらいものが多かった。数こそ減ったものの、相変わらずの国内テロが継続され、無辜(むこ)の民が殺されてきた。さらに、アルジェリア航空機タマンラセット墜落や、昨年の水害や今年の大地震のような事故、天災など、心を痛めることが続いてきた。そのたびに、「あの大家さんの家族、一族は大丈夫だろうか?」といつも思ってしまう。
ウッセン・デイの大家さんのファミリーは、ベルベル人のムッシュが元小学校校長で、のちにウッセン・デイ区長もつとめた人であった。マダムの他に、博士で大学教員の長女、高校教師の長男を筆頭に、三男四女の大家族であった。ベルベル人は先住民族であるが、文化程度が高くインテリもたいへん多いといわれる。
あれから17年経った今でも、どうやら家にコンピューターはないらしい。E-メールでもあったら、もっと頻繁に連絡しあえるのだが・・。日本の新聞で、「アルジェで水害、**人が死亡」とかいう見出しを見ても、それだけでわざわざ国際電話を掛けることも躊躇われ、ウェブサイト「アルジェリア・デイリー」で関連記事を探すのが、関の山であった。
アルジェリア・デイリー
帰国してからはずっと、最低年一回は手紙のやりとりを続けてきた。その間に、「厳父にして心優しい熱心なモスレム」の家長のムッシュが亡くなり、長女と次女がカナダに越し、長男、二男、三女が結婚し、それぞれに子どもが出来た・・・。それらを知らせてくれているのが、いまだに結婚していない四女である。歳はおそらく三十代の後半であろうか。彼女は、「夫を亡くしてから糖尿病で体調が優れない母」を助け、家事全般を任されている。
アルジェリアにいた方なら分かるが、此地の女性はおしなべて働き者である。私たちがいた頃も、母娘共々朝早くから夜遅くまで働いていた。これに対して、男たちが「犠牲祭(ムトン祭り)」以外で、家内で働いているのを見たことはほとんどなく、我が妻などは、「アルジェリアの男は働かないね」とよく言っていた。とはいっても、男は外では買い物をはじめとして、けっこう働いているのではあるが。
その「しっかり者」の四女が、ある時めずらしく「愚痴めいた手紙」を書いて寄越したことがあった。曰く、「母は最近、糖尿病の状況が良くなくて、あまり動かなくなった。家事が全部私にかぶさっている。自分の時間がない。兄たちも結婚して、長男以外はみな家を出てしまった。姉たちも出てしまって、今は家にいない。話し相手も減ってしまった。私も(年頃なので)デートがしたいが、相手もいないしその時間もない。今の状態では、結婚なんて考えられない・・・・。」という随分落ち込んだものであった。
アルジェにいるときよく話したが、いつも微笑んでいて明るく優しい彼女だから、こんなことを書くのはよほどのことなのだろう。それにしても、長男のお嫁さんは、どうしているのだろうか?お母さんはなんと言っているのだろうか?いくつかの疑問や意見はあったが、それぞれの立場があるだろうから、私は返事の手紙ではそれには触れなかった。
またある時、いつもの手紙にはめずらしい「お願い」がついてきた。それはこういうものであった。「当地でたまたま、日本の音楽が放送された。そのメロディを聴いていたら、日本のあなたたち夫婦の顔が目に浮かんできた。「さくら」という曲はいい曲だ。その曲の楽譜と歌詞が知りたい。できたら送って欲しい。」
それは私たちにはたいへん嬉しい言葉であった。三年間しか一緒に住んでいなくて、もう二十年近くも会っていない「異邦人」の顔を、一つの音楽で思いだしたのだから・・。さっそく私は町に出て、その曲が入っているCDを探した。そして、それをCDRにコピーし、歌詞をアルファベット(ローマ字)でタイプして、航空便で送った。同じものを数日後、確実性を期してもう一度送った。それにつけ加えて、「もしお家にコンピューターがついたら、メール・アドレスを教えてね」と書いた。
半年位して、彼女から手紙が来た。曰く「CD送っていただいて、ありがとうございました。歌詞は日本の字ではなく、アルファベットなのでよく分かりました。これからCDのかかる機械を探します・・。」と。「まだ残念ながら、家にはコンピューターはありません・・。」それらを読んだとき、私は「しまった!」と思った。
「カセットのかかるラジオ」は当時からアルジェリアにあった。よく道端の青年たちが持って音楽を聴いていた。しかし今でも日本と違い、どこの家でも「CDのかかるラジオ」はないのであろうか。「物がないのが当たり前のアルジェ」から、「何でもあって当たり前、そして物がありすぎる日本」に帰っての長い年月は、わたしに、「物が潤沢でない国」の人たちのことを「思い遣るこころ」を失わせていた。カセットテープで送っていた方が良かった。何も考えず、つい日頃使っている「便利で音の良いCD」を送っていたのだ。
その手紙には、四女と一緒に写ったやや老いたマダムや、目の大きい二人の子どもと写った長男夫婦や、美人だった三女のかわいい子どもたちの写真などが何枚か同封されていた。それを見ていると、あの時代が蘇ってきた。当然ながら、長男のお嫁さんや子どもたちは知らないが、それでも行けば歓迎してくれそうな気がした。
話は当時にさかのぼるが、アルジェ赴任半年後の10月のある日、三女が風呂場で「ガス中毒」で倒れた。明らかに、一酸化炭素中毒であった。その頃はまだ大家の家に車がなく、私の車に三女とムッシュ、次女を乗せて、市中心部にあるムスタファ病院に運んだ。三女は途中、私の車の中で何度も嘔吐をした。シートがたいへん汚れ、運転しているこちらまでも吐きそうになるキツイ臭いのなかで、飛ばしまくってやっと病院に到着した。彼女は直ぐさま酸素吸入を受け、一命を取り留めた。あの日から、大家ファミリーの私たちへの扱いが変わった。やっと「ファミリーの一員」になれたのであった。
それからというものは、「長女のドクター論文が通った」、「次女がアルジェ大学に合格した」といっては、食事に呼んでくれた。しかし私は妻と違って、最後まで「クスクス」は好きにはなれなかった。また「いまテレビ番組で、日本が紹介されているぞ!」といっては、息せき切って呼びに来てくれた。長女を除く兄弟姉妹全員と、彼らの故郷であるカビリー山地のティジウズを通って、田舎の村まで車数台でドライヴしたこともあった。優しく親切な彼らの人柄とともに、忘れられないことがらである。
圧巻は、長女の結婚式であった。私は「男性入室禁止」の花嫁の部屋で、ただ一人の「公式写真係」を仰せつかった。そこに他の男性は居なかった。親族の男さえ入れない部屋だった。華やかな雰囲気だった。私の人生で、一度にこんなに多くの女性の写真を撮ったのは、おそらく「最初で最後」であろうか。
三年の任期が終わっての帰国一週間前、日本から持ってきた布団乾燥機とズボンプレッサーを置いて帰ろうと、マダムに伝えた。ところが、彼女はなぜか嬉しそうな顔をしない。「お日様があるのに、アイロンがあるのに、なぜ日本人はこんな物を使うのか?こんな物は要らない。」というのである。彼らの生き方や物の考え方のほうが、「真っ当」なのである。その他にも、私たちはアルジェリアの方たちから、いろいろなことを教えていただいた。時には、このように「目から鱗が落ちる」こともあった。
日本に帰る日、ファミリーが総出で見送ってくれた。ムッシュは、「ここにもっと居てもいいんだよ」と名残惜しそうに何度も言ってくれた。マダムは妻と抱き合いながら、涙を流して「ほんとうに帰るのか?」と繰り返した。その時私たちは、いつまでも居たい気がしていた。彼らが好きだった。
アルジェの家と妻と四女
終わりになったが、最近の国際情勢を見ると、「アメリカの正義」ですべてが動いている。しかし、正義は一つではない。「イスラムの正義」もあるし、モスレムの言い分もあるだろう。アフガニスタン、イラク、パレスティナのいずれを見ても、「アメリカの正義」、「資本主義的打算」と「キリスト教的価値観」でもって、力で押さえつけている。これでは、問題は何一つ解決しない気がする。「北風」より「太陽」の方が強いという寓話があるのだ。
仮に、「宗教による対立」は置いたとしても、「貧困」がその根元にあるのだから、誠に根が深い。まずは、「対話」と「自立支援」から考えなければならないだろう。
私は毎日の外電を見るたびに、悲しい気分になってくる。この地域で、人間が死なない日はないのだ。
いずれにしても、中近東周辺地域に平和が戻り、アルジェリアでも社会問題が早く沈静化し、外国人が安心して訪れ、アルジェリア人と旧交を温められる日が、早急に来ることを願って止まない。
(おわり)
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