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「アルジェリア情勢の現在:旅のノートから」

上智大学アジア文化研究所
私市正年

  昨年の12月末、実に13年ぶりにアルジェリアを訪れた。1980年からほほ隔年のペースでアルジェリアを見て回るようにしていたが、アルジェリア情勢の急変のため1989年9月を最後に訪れる機会がなかった。従って、これだけ間隔があくと、浦島太郎のような気分であった。

 新聞や雑誌で伝えられる記事は多くが悲惨なテロ事件であり、家族や友人は言うまでもなく、私自身も不安な気持ちがあったが、この10年間の激動により「アルジェリアがどうなったのか」確認したい、というあせりにも似た期待感の方が強かった。

 パリからのアルジェ航空の搭乗手続きは、ボディチェックと荷物チェックが何度も行われ、ずいぶんと時間がかかった。ごく少数のヨーロッパ人がいるだけで、客の大半は年末を故国で過ごそうとするアルジェリア人であった。私の隣席の男性もカビール地方出身のアルジェリア人(1944年生まれ)で、独立戦争さなかの1960年に出稼ぎ労働者としてパリに出た後、初めて帰国したのは独立後の1965年で、それは結婚をするためであったらしい。現在は工事現場でフォークリフトを操作する仕事に従事している。私にとっては、アージュロン著『アルジェリア近現代史』(白水社・文庫クセジュ)を翻訳出版したばかりであったので、飛行中の会話は、独立戦争当時の状況や故郷に残したまま単身でのフランス生活についての話が伺え、たいへん興味深いものであった。

 さてアルジェ空港から市内のホテルに向かう車の中から、私は少し興奮しながらどきどきするような気持ちで13年ぶりのアルジェの街を眺めた。コロニアル風のビル、バスを待つ人々の雑踏、薄汚れた車。どれもなつかしいアルジェの姿であった。郊外では新しいアパートの建設も進んでいるようである。翌日からアルジェの新旧市街を歩いてみて最も印象的であったのは、シベル・カフェ(インターネット・カフェ)の普及であった。ある店主に聞いた話によれば、アルジェリアのシベル・カフェ開設が認められたのは5年くらい前からで、現在ではアルジェ市内だけで500箇所以上にのぼるらしい。

アルジェ ”カスバの一角で”


 カスバの中も歩いてみたが、昼間であればそれ程危険は感じられなかった。あちこちで「どこから来たのか。日本人か。数年前はここで銃の打ち合いがあったが、もう安全だから自由に歩いて全く問題ない。」と声をかけられた。しかし、新市街のど真ん中で「・・年・・月・・日・・時・・分、ジャーナリスト某がテロリストによりここで暗殺される」との碑文をみかけると、はっとする思いでそこに立ち尽くしてしまった。

 アルジェに数日滞在した後、コンスタンティーヌに飛んだ。フランス植民地期の1912年に建てられた三ツ星ホテルに宿泊したが、立派な外観に反して、外国人観光客がいないため部屋の電球がつかなかったり、ソファーのバネが弱っていたりしてメンテナンスが十分には行き届いていない。これは、コンスタンティーヌの後に訪れたオランでも同じであった。コンスタンティーヌではトラベンディスト(非合法の街頭の物売り)の多さにはびっくりしてしまった。その殆どが10代から20代の若者たちであった。これらのぶあつい実質的な失業者層はアルジェリア社会の安定に暗い影を投げかけている。

 コンスタンティーヌでもう一つ印象深いことはアミール=アブディルカーデル・イスラーム大学である。巨大な二本のミナレットを備えた建物は壮観である。1984年にイスラーム学の教育・研究機関として建設されたこの大学は、学部から博士課程までのコースを有し、学生総数は2700人(内マスターおよびドクターの学生が400人)、男女比はやや女子学生の方が多い。教師は119人で、一人を除き他はすべてアルジェリア人である。共学であるが、教室内や図書閲覧室、カフェテリアなどでは空間的に男女は分離されている。学長アミーラーウィー氏によれば、卒業後は国内の教育機関や宗教施設でイスラーム学やアラビア語の教師、イスラーム宗教職などの仕事に従事するとのことであった。ここは正しく1980年代にシャーズィリー大統領下で進められたイスラーム化政策を代表する施設といえよう。

コンスタンティーヌ ”イスラーム大学”


 続いてアルジェリア東方の大都市オランを訪れた。コンスタンティーヌの後にオランを訪れたのはある意図があったからである。その意図とは、オランがコンスタンティーヌとは対照的に近代商工業都市であり、ライ・ミュージックがここから生まれたように、イスラーム主義運動の潮流とは別の若者たちの意識をこの都市に感じ取れるのではなかろうか、と思ったからである。

  街中にはバーやクラブがあり、酒を売る店も目につき、また宿泊したホテルでの年越しのディナー・ショウにはライ・ミュージクも聞くことができた。こうした点では、オランとコンスタンティーヌには異なる雰囲気は感じられた。

 しかし、それ以上に私の興味を引いたのは、カテドラル・サクレ=クールが公共図書館に変わっていたことであった。この大聖堂は1903年の建設で、独立後もしばらくは使用されていたようだが、1984年に公式に閉鎖し、図書館として開館した。建物の外観と見事なステンドグラスに装飾された内装はそのまま残されている。しかし、ここでもアルジェリアが1980年代に脱植民地化とアラブ・イスラームの色を強めつつあった状況をみてとれた思いがした。この後に訪れたアルジェのノートル・ダム・ド・ア・フリークでも同じ印象をもった。

Hydraの八百屋さん


  以上、短期間ではあったが、今回のアルジェリアの旅は、1980年代から1990年代に起こっていた政治・社会・文化の激しい変化の一端を確認でき、多くの収穫があった。
なお、在アルジェ大使館の方々、とくに浦辺彬・特命全権大使、今村さん、山田さん、奥冨さんには格別のお世話になりました。お礼を申し上げます。