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アルジェリア危機の11年間
− FISの元正・副議長釈放

長谷川 善郎
備考:本稿は「季刊アラブ」(日本アラブ協会発行 2003年 No. 106)からの転載であるが、内容に一部修正を加えた。

 7月2日、アルジェリアのイスラーム原理主義組織、イスラーム救国戦線(FIS)の元指導者アッバーシ・マダニ議長(71)とアリ・ベンハッジ副議長(45)が12年の刑期を終えて釈放された。2人は1991年6月30日に国家反逆罪で逮捕され、12年の禁固刑に処せられていた。マダニは97年7月5日、政治活動は行なわないとの条件付で仮釈放され、自宅軟禁に置かれていた。一方、ベンハッジは軍刑務所で刑期を満了した。2人は釈放に際し、治安当局から政治活動は行わない旨の書類への署名を求められた。マダニは一読後署名したが、ベンハッジは署名を拒否し、国との対決姿勢を示したという。2人の釈放は「アルジェリア危機」の一つの節目と言える。これを機に同危機の11年間を振り返ってみる。

 アルジェリアでは仏植民地からの独立後、「アルジェリア人のアルジェリア」を標榜して、イスラーム化とアラブ化が国是とされ、その振興が図られた。しかし、その過程で、独立戦争を戦ったアルジェリア民族解放戦線(FLN)の一党独裁体制の中で恩恵に浴さなかった者や政治的イスラームの影響を受けた者たちが、イスラーム勢力を形成することとなった。79年のイラン革命や同年12月のソ連のアフガニスタン侵攻は、これらイスラーム勢力の拡大に影響を与え、イスラーム国家を模索する動きが芽生えた。

 重化学工業化による国家開発を進めていたアルジェリアは、86年の石油価格の暴落以降、対外債務返済が国家財政に重くのしかかり、消費物資や日常食料品の深刻な欠乏を招いた。88年10月5日には食糧不足と物価の値上がりに抗議するアルジェでのデモが暴動化し、各地に広がった。死者700人とも言われる暴動が鎮圧された後、イスラーム勢力が表舞台に姿を現し、FISの名のもとに結集した。

 イスラーム勢力の一連の食糧デモの中で指導的役割を果たしたのがベンハッジだった。「暴動の原因は腐敗政治を招いたFLN一党体制にある」と、炎のように激しく、かつ巧みな演説で大群衆の若者たちを惹き付けた。一方、マダニはイスラーム法学者として長くイスラーム運動を指導してきたが、イスラーム国家実現の段階に達したと考えベンハッジと組んで89年2月、FISを創設した。

二人の逮捕、そしてFISと政府との対立

 当時のシャドリ政権は食糧暴動の危機から政治体制の自由化を約束し、89年2月、複数政党制の導入を決定した。FISも同年9月、政府認可を受けた。複数政党制下で実施された初の選挙が90年6月の地方議会選挙だったが、ここでFISが大勝利し、地方選挙終了とともにアルジェリア情勢は騒然となった。FISは政権取りに向けて頻繁にデモや集会を行ない、一方、次の人民議会選挙を睨んで新しい政党も次々と誕生した。90年8月2日勃発したイラクのクウェート侵攻に伴う湾岸情勢の緊張は、アルジェリア全土で反米・イラク支援デモを誘発し、国民の政治意識を一層高めた。

91年3月末、人民議会選挙実地日が6月27日と発表されると、FISは人民議会選挙より大統領選挙の早期繰り上げ実施を要求して、5月25日から無期限ゼネストに突入した。6月5日、戒厳令が布告されストは終止符が打たれたが、人民議会選挙も12月26日に延期された。混乱の中で、マダニとベンハッジらは6月30日逮捕され、その後FISはナンバー3のハシャニ氏によって指導されていくことになる。12月26日の人民議会選挙の第1回投票で、FISが勝利を収め、これが原因して、シャドリ大統領が1月11日辞任した。翌日、国家安全最高評議会(HCS)が設置され、第2回選挙の中止を発表すると、政府とFISの深刻な暴力の対立「アルジェリア危機」に突入した。

 94年1月、ゼルーアル国防相が国家主席に就任して、対FIS融和政策に乗り出した。同年8月から翌年6月にかけ、マダニとベンハッジを相手に断続的に対話を行ったが、ベンハッジの強行態度やFIS内部の意見不一致で、FISが暴力の放棄に応じなかったため、政府は95年7月、FISとの交渉を一切打ち切ると発表した。ゼルーアルは95年11月に行なわれた大統領選挙で大統領に就任した。同大統領は翌年11月、2院制の導入と大統領権限の強化を目的とする憲法改正国民投票を行ない、97年6月には、国民議会選挙(下院)を実施した。また、同年12月に国民評議会(上院)を成立させるなど、政府は民主化を着実に進め、安定基盤の再構築を図った。

 ゼルーアル大統領の辞任に伴う99年4月の大統領選挙で、ブーテフリカ現大統領が当選した。大統領は国民和解を押し進めるとともに、アルジェリアの民主化に疑念を抱いていた国際社会に対し、OAU(アフリカ統一機構)、G8諸国との首脳外交を成功させた。これにより、アルジェリアは国際社会に完全に復帰した。とくに、フランスとの間では両国大統領が相互に歴史的訪問を実現し、協調体制を確認した。今年6月にはエール・フランス航空のアルジェ便の運行が8年半振りに再開された。

 一方、FISは93年3月に非合法化され、政治的民主化と融和策が進む過程で、97年6月の国民議会選挙までには完全に影響力を失った。現在イスラーム勢力を代表して、穏健派のMRN(国民改革運動)やMSP(平和のための社会運動)などが上・下院で議席を得て活動している。アルジェリアは長期に及んだアルジェリア危機を乗り越え(テロはまだ山間部を中心に小規模で続いているが)、政治的に安定期を迎えている。

  日本との関係でもブーテフリカ大統領は九州・沖縄サミット関連の会議出席のため、2000年7月にアルジェリア大統領として初めて来日した。経済関係の強化も進んでおり、昨年末、日本・アルジェリア合同経済委員会が9年振りにアルジェで開催された。また、今年6月のアルジェ国際見本市に日本は12年振りに出展した。アルジェリア在留邦人も90年の344人が94年には44人に減少したが、本年上半期では89人にまで回復、アルジェリアへの短期出張者も359人と拡大基調にある。

以 上