2002年7月5日 |
今から40年前の今日、アルジェリアの兄弟・姉妹は、7年半にわたる熾烈な闘いを経て独立を実現しました。
130年間にも及んだフランスの植民地支配の頚木を断ち切り、独立を目指す闘いは、困難をきわめ、150万人もの殉教者の生命を代償にして独立が達成されました。
わたくしは、ここに日本・アルジェリア協会を代表して、アルジェリア革命40周年に当り、偉大なアルジェリア人民に心からお祝いを申し上げます。
アルジェリアが独立を達成してから、今日に至るまで、アルジェリアは独立を揺ぎないものとするために多大の努力を傾注してきました。しかし、その道程は決して容易なものではありませんでした。
不幸なことに、アルジェリアは1992年から1999年まで、テロ旋風に見舞われ、多くの人々がテロの犠牲になりました。
故宇都宮徳馬先生も、アルジェリアが危機に陥っていた時、吹き荒れるテロに対して、心を痛めておられました。宇都宮徳馬先生は、アルジェリアの兄弟が祖国の独立を目指して闘っていた時、多くの心ある日本の友人を結集してアルジェリア独立運動を全面的に支援されました。宇都宮徳馬先生は、1990年7月1日に他界され、葬儀はアルジェリア革命38周年記念日に行われましたが、40周年を迎える今日、アルジェリアはブーテフリカ大統領のもと、国民的融和を実現し、着々と民主的近代国家の建設に向けて邁進しています。
本年3月に急逝された、渡辺伸前駐アルジェリア大使は、アルジェリア赴任中に書かれた名著「アルジェリア;危機の10年」(文芸社)の中で、アルジェリア国民が持っている社会的進歩に対する熱意と卓越した能力について繰り返し強調されていますが、まさに現在、そのことが証明されています。
わたくしは、アルジェリアが危機に陥る直前の1988年4月以降、今日まで4回にわたってアルジェリアを訪問し、各層の人々と意見を交換しましたが、今まで度々言及したように、アルジェリアは見事に再起しようとしています。アルジェリア政府は欧米諸国との外交関係を正常化し、政治・経済関係を深めています。わが国も、今まで以上にアルジェリアとの関係を深化させ、あらゆる分野で協力関係を深めて行かなければならないと確信しています。
1991年に開催された沖縄サミットの際に来日されたブーテフリカ大統領にお会いした際、アルジェリアが不退転の決意をもって、祖国再建に着手したということを確認いたしました。故宇都宮徳馬先生、渡辺伸大使もお喜びのことと思います。
誠に喜ばしいことに渡辺伸大使の意思を継承して、このホームページは継続されることになりました。日本・アルジェリア協会は日本・アルジェリアセンターと手を携え、親日家であるベンジャマ大使と協力し、今後、一層、両国間の友好・親善の輪を深め、広げて行きたいと思っております。
アルジェリア革命40周年祝うに当り、再度、われわれの意思をここに表明いたします。
アルジェリア革命40周年記念万歳
日本とアルジェリアの友好万歳
アルジェリア革命40周年祈念を祝う
国連大学 |
早いもので、1962年7月5日にエビアン協定に基づきアルジェリアがフランスからの独立を宣言してから40年の歳月が経つ。独立戦争の末期1961年10月に初めてアルジェリアを訪れた私にとって、歳月人を待たずの感がある。1961年秋、サハラのオアシスで、出来たばかりのソニーのトランジスタ・ラジオで受信したNHKの短波放送からは、東京外国語大学にアラビア語学科が新設されたというニュースが伝えられてきた。それを聞いたアルジェリアの友人は、我がことのように喜んだものである。1960年にフランスがレガンヌで原爆実験を始めた時は、最初に抗議したのは日本政府であったが、そのことを彼はよく知っており、私まで感謝された。
それから3年後の1964年、着任されたばかりの初代瓜生大使の紹介で、サハラ研究機構の配慮により、アルジェからコロンベシャールまで10数時間のドライブでサハラに入り、その後ベニ・アバスのサハラ博物館や、アドラールを訪れた。FLNの事務所長がチミムーンまで案内してくれたが、その際二人の男の子を連れていた。聞けばムジャヒディンの遺児で、父親はフランスの軍用機から沙漠に突き落とされたのだという。その子らに海を見せようとの国内旅行の途中であったのである。独立当時のアルジェリアの人口は1000万人(うちコロンが100万)ほどであったが、独立戦争におけるアルジェリア人の犠牲者が100万人と言われていた。人口の1割が激しい戦争の中で失われたという厳粛な事実を私たちも決して忘れてはならない。
以後私は10回近く、アルジェを経由してサハラの現地に入ったが、その度ごとにアルジェリア人の生活の変化が感じられた。大半のコロンが引き揚げて後、農園の荒廃(特にブドウ園)が進む一方で、重化学工業中心の経済開発政策の下で、多くの公社・公団ができた。SONA・・・の後の文字だけでは何の機関か外国人にはすぐには了解出来なかったものである。私自身はアルジェに長期滞在したことがないが、サハラ奥地での生活から、物資の流通を始め様々な社会の変化を見届けてきた。ハッシ・メサウドに石油基地が出来て以後、サハラ各地で日本企業の進出も始まった。また、石油化学など下流部門のプロジェクトでも日本勢が活躍するようになった。
また、これはアルジェリアだけでなく隣国のリビアなど中東地域においてに同じであるが、日本の手によってマイクロ・ウエーブ回線設置が進められた。1980年暮れ、地中海沿岸から1500キロ南にあるアウレフ・オアシスに住む友人の家にも電話機が設置され、1981年1月1日の運用開始を待っていた。私も、この歴史的瞬間に東京の家内に電話するのを楽しみにしていたが、アトラス山脈で大雪のため重油の輸送が間に合わず延期となり、改めてアルジェリアの国土が日本の6.5倍と広いことを実感した。アウレフ・オアシスのマイクロ・ウエーブ回線の鉄塔は、日本の技術者が来て3日で工事は終わると言ったので、村人は半信半疑で見守っていたが、本当に3日でびしっとした鉄塔が建った。日本人の見事な仕事ぶりは、その後、一部の教科書に美談として掲載されたというが、本当ならばうれしいことである。
日本がアルジェリアにおいて行ったプロジェクトの一つに、丹下建三氏の設計によるオラン工科大学の立ち上げがある。日本の大学から毎年一定の人数の交換教授を送っていた。1993年に現地を訪れて、送られた機材の豊富なのにびっくりした。しかし、残念ながら1993年以降は関係者も引き揚げて、未だ交流が再開しないようである。この施設などは、パソコンから電子顕微鏡、太陽電池までかなりの在庫があるので、うまく活用されていることを願って止まない。
1993年まで続いていたアルジェリア訪問も、政情不安のため暫く足止めを受けていたが、幸いにして、1996年12月、日本大使館で行われる天皇誕生記念パーティーに出席するという名目で、チュニスからアルジェに入ることができた。渡辺伸大使の細かな心配りで二泊三日の滞在は無事終えたが、パーティーには大使館関係者以外、日本人は私一人という状況であった。しかし、初代駐日大使のベンハビレス大使御夫妻など旧知のアルジェリアの友人と再開でき、中国やヨーロッパの外交団と話す機会があったのは有意義であった。その後も2000年、2001年と訪れたが、その折の大使御夫妻の暖かい心配りは今でも忘れられない。そして、一年毎に、アルジェ空港から市内への移動中に感じる雰囲気が穏やかになっているように思われた。
思えば、日本は、独立闘争が始まってから1年しか経っていない1958年に、FLNの駐在事務所の開設を受け入れ、続いて1964年には大使館が正式に開設された。初代駐日大使にはベンハビレス氏が任命され、デバガ氏らが補佐にあたった。日本は、1962年の独立宣言の日にアルジェリアと外交関係を正式に結んだが、以来、両国の間に特に難しい懸案事項はなく、1992年頃までは日本はフランスに次ぐ経済協力を行ってきた。それは、インフラの整備から教育まで極めて広い分野に渡る。しかしながら、1993年頃から政情が不安定化して以降、日本企業は一部の石油基地を除き一時引き揚げを余儀なくされた。しかし、この数年は、少しずつではあるが日本企業の復帰が見られるようになってきているのは喜ばしい。アルジェリアは、高い失業率、あるいは、民族問題という厳しい国内事情を抱えているが、現政権の打ち出している国民和解の方向で、何とか早く政情が安定する日が来るのが待ち望まれる。
ここで目を日本-アルジェリア間から世界に転じてみると、現在進行中のアフガニスタン再建におけるブラヒミ国連特別代表、ユネスコの世界遺産のブシュナキ博士など、アルジェリア人の国際社会における活躍はめざましいものがある。また、過去にも、イランでの米国人の人質解放、イラン-イラク戦争の調停と、直接・間接アルジェリア外交の果たしてきた役割は大きかった。現大統領のブーテフリカ氏の外相時代の活躍も私達の記憶に残るところである。
また、地中海の国、イスラムの国であると同時にアフリカの国であるアルジェリアは、セネガル・エジプト・ナイジェリア・南アフリカと共に、新生のアフリカ連合(AU)の方針であるNEPAD(アフリカ開発のための新パートナーシップ)の中で中心的な役割を期待されている。1999年にアルジェで開催されたアフリカ統一機構(OAU)の会議で示されたアルジェリア側の見事な采配ぶりから見て、良いまとめ役となるであろう。
アルジェリアは、苦しい財政状況の中でもアフリカ諸国への援助を行っているが、それを口に出して言わない雰囲気があり、一般の日本人にはこのような外交努力は知られていない。
2002年初頭、私はサハラのアウレフ高校を訪問したが、その折、私は独立40周年に触れ、アルジェリアの未来は君達の双肩にかかっているぞと若者達に激を飛ばした。苦しい独立戦争を知らない次の世代が、どんなに成長していくか暖かく見守って行きたい。最後に一言、私の長い間のアルジェリアとの交流について、暖かい応援をして頂いたアルジェリアと日本の様々な機関や個人に心から感謝の気持ちを表明し、改めて独立40周年おめでとうの言葉をアルジェリア国民の皆さんに捧げたい。