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私とアルジェリア

室伏 稔
経団連
前日本アルジェリア経済委員会委員長
(伊藤忠株式会社 会長)


 1994年以来7年に渡り経団連の日本アルジェリア委員会の委員長を勤めましたが、この間アルジェリアとの経済交流維持が私の最大の関心事でありました。委員長就任 当時、既にイスラム原理主義のテロ過激派が台頭していました。アルジェリアの治安状況に不安があることから、邦人企業は一時避難の状態だったからです。

 幸いな事に、この難しい環境の中でもアルジェリアとの信頼ある協力関係を継続することができました。炭化水素公社を始めとしてアルジェリアは日本人と日本の技術に絶大な信頼を置いてくれていました。炭化水素関連分野では仕事が途絶えることが有りませんでしたし、受注した邦人企業も信頼に足る立派な仕事を心がけて施工に従事しました。勿論、現地での安全対策に細心の注意が払われたことは言うまでもありません。

 1999年にブーテフリカ大統領が登場すると、アルジェリアは新生アルジェリアとして国際舞台に復帰しました。民主化、行政改革、経済改革の推進に加え、治安問題が急速に改善され、欧米が頻繁にアルジェリアにミッションを派遣するようになりました。

 このような情勢変化を背景として、昨年、沖縄サミットの機会に訪日された大統領から、日本経済ミッション派遣の強い要請がありました。関係者と協議の後、有志による経済ミッションの組成を決定し30余名で現地に赴いた訳ですが、この会議にはアルジェリア側から官民100人超の参加が有り、これまでの7年間を埋め合わせる熱気のこもった討議となり、アルジェリア側の国際化による経済再生にかける意気込みが伝わった会議でした。

 今年に入り、邦人企業が相次いでアルジェに戻りだしていることの報告を受けるに連れ、今後の日本・アルジェリア関係は更に飛躍して発展を遂げるだろうと確信している次第です。


私とアルジェリア

重久 吉弘
経団連
日本アルジェリア経済委員会委員長
(日揮株式会社 取締役社長)


 室伏前委員長(伊藤忠商事株式会社 取締役会長)の後任として、この度経団連日本アルジェリア委員会の委員長に就任いたしました。

 ご存知のとおりアルジェリアは北アフリカにおける大国であり、特にわが国とはオイル、ガスビジネスを通じて深い友好関係にあります。そして現在ブーテフリカ大統領の指導の下、新しいアルジェリアの国造り、特に経済建設が強力に進められております。わが国への期待は大きく産業のあらゆる分野への投資要請が寄せられています。幸いこの委員会構成企業には商社、銀行をはじめ大手重工業、電気、自動車などのメーカーの方々も参加しておられますので、是非とも両国にとって有益な協力関係を続けていきたいと考えております。  

 この二国間経済委員会はアルジェリア国にミッションを派遣し、定期的に合同委員会を開催するなど、両国の経済関係の発展に寄与して参りました。 しかしながら92年以降の治安情勢悪化のためミッション派遣など経済的交流も制約されたものになっておりました。最近は治安も落ち着きを取り戻しつつありますので、今後ミッション派遣の再開に向けて努力していきたいと考えているところです。皆様のご理解とご支援をお願い申し上げます。

 なお,わが社(日揮株式会社)もアルジェリアとはオイル、ガス関連プラント建設の長い歴史を通じて、少なからず同国に関する知見を持っておりますので、私と致しましてもこれを役立てて、より良い両国の協力関係の樹立とアルジェリアの経済発展に貢献していく所存であります。


アルジェリアに世界最大のプラント建設

井上 洋
(伊藤忠)

(編集部注:井上洋氏は、伊藤忠商事化学プラント部出身、1964年より1970年まで同社の初代アルジェ所長,次いで1978年より1982年まで2度目の所長を勤められた.同氏は,同社にとって、また、わが国経済界にとってアルジェリア市場開発の草分け的存在であった。1998年第一線から退かれたが、病に倒れ、2000年7月1日逝去された。本稿は1971年頃の同社社内報に掲載されたものであり、最近、道子未亡人から提供を受け、ここに転載した。井上洋氏のご冥福をお祈りしつつ)


 アルジェリアの石油公社から石油精製プラント建設の話しを持ち出された時は、正直なところ、私も半信半疑だった。

 アルジェリアの天然ガス工業化案を国連のUNDPから請け負って、アルジェリア側に非常に好意的なコンサルティングをした日本揮発油(編集部注:現、日揮株式会社)でさえも、この石油精製プラント建設には首をかしげた。

 当時アルジェにいる日本人は数少なく、私は家族帯同ということもあって、一種のセミ外交官としての役割も果たしていた。ブーメディエン大統領は42歳、石油公社ゴザリ総裁は35歳、若い彼らと若い国アルジェリアの将来について語り合ったことも度々あった。したがって私は、アルジェリアがこのプラント建設にかける期待をなみなみならないこともよくわかる。「軽工業から始めて、重工業に徐々に移行するのが一番安全な道であることはわかっている。

 しかしそれでは、いつまでたっても先進国においつけないではないか」建国10年足らずの国家首脳の言葉である。私は彼らと話しをするごとに、タイムマシンで明治維新当時に逆行したかのように感じる。建国の意気、民族の自立、彼らの気概がひしひしと感じられるのだ。 しかし、「スエズを越えて重工業プラントを輸出することは不可能だ」というのが当時我々の間のジンクスであった。「アルジェリアですか?まるでフランスが北九州に工場建設をしに進出してくるようなものですよ。できるわけがない。できれば,必ず許可もしてあげますし、まあ拍手喝采ですな」これが日本政府の非公式な見解だった。官民問わずの常識であった。貿易の9割以上をフランスに依存し、しかも戦火の後も未だ生々しい国、アルジェリアが相手なのだから・・・。

 我々はアルジェリア政府に賭けた。この若さに賭けてみた。慎重な日本揮発油を我々は説得した。アルジェリア政府は、「脱ヨーロッパのためには、ここでぜひ日本に発注したい」また、彼らは日本揮発油の技術力と国連コンサルタント当時の好意を高くアプリシエイトしていた。 1968年10月、入札が締め切られた。競争相手の中には世界的に有名な伊スナム社も含まれている。これから約10ヶ月、延々と条件交渉が続くのである。言語が異なる、発想法が違う、石油公社の買付委員会は20〜30歳台で若くてNEGO経験が浅く交渉がスムーズにいかない。水は下剤よりまだ悪い、ホテルの部屋は狭くて熱くて、時には部屋数が少ないためにそこにさえ泊まれない。NEGOのハードさは想像を絶した。

  言語の障害を克服するために、パリ駐在員はもとより、フランスに派遣されていた語学研修生を総動員した。これら伊藤忠の若い世代は思いがけない戦力となった。うれしい誤算だった。不慣れな生活環境に疲れ、意気阻喪する日揮・伊藤忠のNEGO団を励まし、力づけたのはこの若い伊藤忠マンたちであった。

  冷房もない西日まで射す石油公社の粗末な会議室で、深更に及んだ契約調印の夜、肉体的にも精神的にも我々は疲労困ぱいしていた。我々の譲歩は"アルジェリア民族のため・・・激戦の後、我々に残ったのはこの感慨と眠りたいという肉体的欲求のみであった。総額250億円、TURN−KEY BASE、建設期間30ヶ月、これは日本プラント輸出史上最大のものとなったのだ。スエズを越え、常識の壁を打ち破って・・・。



アルジェ・ティパザ紀行

菅原治子

 縁あってアルジェリアを訪れたのは、2000年の八月のことだった。

 ここ数年の間、政治的・社会的に不安定で、外国人をも容赦しないイスラム原理主義のテロが吹きすさび、アフリカで最も危険できびしい警戒態勢がしかれている国だということはわかっていた。が、最近の情勢は著しく改善され落ち着いてきている。実際にアルジェで生活している方が、「もう大丈夫」と言われるからには、是非ともこの地を訪れてみたかった。地中海文明に魅せられて久しい。

 地図でみるとアルジェリアは北アフリカの地中海にせり出したような大陸に位置している。フランスからほんの一またぎのところで、みどり豊かな花咲き乱れる南仏を思わせるような海岸ぞいの国である。そしてアルジェから車で二時間ほどはしるとユネスコ世界遺産になったティパザの遺跡があった。

 アルジェに来るまで、ティパザの名前は聞いたことがなかったので、見るもの聞くものすべてがおどろきの連続であった。約70キロの道のりだが、かつてテロが拠点にしていた山岳地帯の下を通りぬけねばならず、沈静しているとはいえ、そこは、対仏独立戦争の時も闘争本部のあったところで仏語の「マキ」とよばれる険しい山の真下の道路である。少々こわいが車は猛スピードではしり抜けた。

 ティパザの手前、左側の丘の上に、トンブ・ド・ラ・クレティエンヌ(キリスト教徒婦人の墓)とよばれる円筒型の壮大な墓がこんもりした小山のように下から見えた。この墓は王家一族の墓として建てられたものと考えられ、由来をたどると、どうやらアントニウスとクレオパトラ一族にさかのぼる。この墓を建てたのはマウルタニアの王、ユバ2世で、彼はクレオパトラの娘、クレオパトラ・セレーネと結婚しているから、一説にはクレオパトラの娘の墓とも考えられるそうだ。

 ティパザの遺跡を訪れる前にそこから発掘された品々を展示している美術館に寄る。女性職員が花模様のロングドレスにオレンジ色のヒラヒラした上衣を着流して説明しながら案内してくれる。見事な壷や彫刻のある棺、貴婦人が涙をためた小さな壷、子供の生贄を入れた棺に小さな魚の骨のような胸骨が行儀よく並んでいるのがいたましい。  圧巻は、壁一面をおおっているモザイク画だ。何という色彩感覚のよさであろう。 ブルーとグレイの幾何学模様が地中海の光り輝く明るい太陽に映え、その中央に骨格のよい二人の囚人が一人は腕を後ろ手に縛られ、一人は足かせをはめられてしゃがんでいる。 何故囚人かと思ったら女性職員の説明によるとこのモザイク画は裁判所の前をかざっていたものだそうだ。

 ティパザ、紀元前6世紀頃フェニキア人によって建設された。最初に地中海で港をつくり通商したのはフェニキア人だ。しかしその絶頂期は2世紀までしか続かず紀元40年にローマ人が攻めてきて街をつくり、ローマの植民地として市民権が与えられる。その後、何世紀にもわたる他民族との戦い、ベルベル族やヴァンダル族の攻撃に苦しみ、ビザンチンによる一時的な復興はあったものの大部分は破壊された。  七世紀にアラブが来たときはすっかりこわされたあとで、テイファサードという名称は、すっかり破壊されたという意味だという。

 1856年に発掘が開始された。現在は整備され、国が管理していると思うが、私達の一行はちょうど昼休みで門が閉じる前に入り、見物客が出て行った後だったので、広い園内は全く人っ気がなかった。きれいなフランス語を話すおじいさんの案内がついてくれた。ベルベル族に破壊されたとはいえフェニキア人、ローマ人の築いた都市の基礎の原型は残っていて昔の繁栄がしのばれる。 赤茶けた土にふりそそぐ南国の太陽を、松をはじめとする樹々の茂みがさえぎってくれる。

 日本の遺跡はほとんどが穴ばかりで、柱の建っていた跡をたよりに考古学者が、家などを想像するしかないが、ここは、土台も基礎もしっかり残っているのでその上を想像するのは容易である。神殿、劇場、競技場、兵舎、商店街、牢屋、馬小屋、道路、これらレンガと石のつくりが地中海を見下ろす丘の上に広々と型どっている。最も重要なことは、北アフリカに於ける原始キリスト教の教会や墓地があることだ。 ローマ人がキリスト教をもってきたと思える。教会にはアーチ型の回廊が一部残っており、そばの丘に石棺がいくつか並んでいる。粗末な洞窟のようなカタコンブもあれば、みごとな彫刻をほどこした石棺もある。街の中央とおぼしきところに、裁判所や集会所、市民の集うフォーラムの跡があった。ローマ時代の大通りは、真っ直ぐに広く馬車が通れるようになっている。

 石造りの壁が道に沿って、築いてあり家を保護している。その道を通りすぎると大きな円形劇場があった。観客席の丸みはかなりおだやかで広く、舞台裏には楽屋もあり、また俳優の声がよく聞こえるように音響効果の壁さえある。勿論これは完全な形で残っているわけではなく、半分以上はくずれているがそれほどの廃墟が広々とした敷地の中で立ち入り禁止の柵もなく堂々と、さあ、ごらん下さい、というようにそびえているところは日本では考えられない大らかさだ。

 ローマ時代、すでに下水が完備していて、下水溝は海までつづき、下水は海に流し込んでいた。当時はプラスティックなどはないので、海の浄化作用が立派に機能していたのである。遺跡の石、岩の上をあるきながら海を見下ろすと涼しい風が吹き上げ、樹々がさやさやと音をたてる。私達が歩く道には、瓦礫のような石やレンガの破片が散らばっており古代の遺物がゴロゴロしている感じだ。一行のうちの一人がひろった壷の一部と思われる丸くわん曲したレンガのかけらを案内人にみせると、そうだ、これはつぼだ、と言われ、取り上げられ返してもらえなかった。

 一時間余り、歩いてもつきない遺跡の広い都市であった。次から次へ、アーチやアーケイドや邸あとがあらわれる。 とにかく地中海の歴史は日本の歴史に引き比べると民族や国家の複雑な入り組みを理解するのに到底わからないことも多く、だからこそ面白くひきつけられずにはおかないのだ。

 遺跡を出て丘の上から見えたすぐそばのリゾート、海水浴場によってみた。高級車がいっぱい並んでいる。花が咲いたように色とりどりのビーチパラソルが浜を埋め尽くし、海岸沿いの小高い丘にはまっ白な別荘がたち並び、昔、華やかなりし頃のアルジェリアを想い起こされた。

 この豊かさ、平和はどうだろう。 そういえば前日、仏映画『望郷』で名高いカスバの街に行ってみた。

 老朽化が進んでくずれかかった石づくりの家が積み重なるように上へ上へと続いている。ペペルモコがカスバから降りてきた階段が目の前にあり、ここも自由に登っていくことができそうだ。あの頃、50年昔と同じように子供達がチョロチョロ出入りし、老人が石の階段に腰をおろしている。しかし、くずれおちそうな家々の穴ぐらのような窓から、屋根の上から白いきのこのようなテレビのアンテナがニョキニョキ立っているのである。

 この短い滞在で私が感じたことは、対仏戦争で大きな犠牲を払い、やっとのことで得た国の独立であったのに、その後またアルジェリア人同士が血を流し合うテロの時代、、、、、

 イスラム原理主義が意図していることは私などにはわからないが、この美しい魅力あふれる国が一日も早く多くの観光客を安全に受け入れることができるようになってほしい、と言うことである。