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風と砂と水が伝えたこと 〜サハラのハジ家100年の回想録〜

アーメッド・エル・ハジ・ベン・モハメッド・ハマジ著
大月美恵子訳・編集・脚注


第2部 外界との邂逅(1949年〜1953年)


第7章 遅い小学生時代T :1949年頃〜1952年頃(12〜15歳)

人種差別:黒人とアラブ人

 人種差別ほど人の心に深い遺恨を残すものはない。フランス人はこの地にやって来た時、奴隷制を禁止した。しかしフランス人は、物事には裏と表があるとよく分かっており、当地の伝統的な人種差別の習慣には目をつぶった。彼らは、「統治するには分断せよ」との黄金律を実践したのである。駐留基地の隊長も、カイドの影響力の大きさを熟知しており、地元社会で何かいざこざが起こっても、見て見ぬふりをするのが常だった。カイドはカイドで、隊長が何も言わないのをいいことに、この地の本当の主(あるじ)は自分だと驕り高ぶっていた。この時代、人間には優劣があるというのが、まだまだ支配的な考え方だった。こうした因習に従って、カイドは、黒人の男にだけ、月に一度か二度フランス人の文民や軍人の所で無料奉仕せよと命じた。
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第8章 遅い小学生時代U :1952年夏(15歳)

フランス留学

 1952年のことであるが、ユーゴ先生は新聞記者のプーランさんと相談して、誰か生徒を一人フランスへ3ヶ月間留学させることに決めた。レイモン・プーランさんは、私が学校へ入った最初の年に、私たちの学校を取材しにきた『リヨンヌ・レプブリケンヌ』(Lyonne Républicaine)というフランスの新聞の特派員である。彼の記事と、彼の撮った写真は、その新聞に掲載された。プーランさんが私たちの学校にやってきた初日、ユーゴ先生は、こう言って彼を紹介した。
「新聞記者のプーランさんを紹介します。彼は私と同じオセール(Auxerre)地方出身の友人です。」それに続けてプーランさんも挨拶した。
「皆さんは実に運がいい。ユーゴさんはとても誠実な人です。彼はオセールの名家の出なんですよ。」
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第9章 遅い小学生時代V :1952年夏(15歳)

初めての列車旅、アルジェへ

 ケナドサの次は、ユーゴ先生の待つアルジェまで行かなければない。アルジェまでは汽車の旅である。父は、私が都会育ちの子供のように世間慣れしていないことを心配して、モハメッド・エル・ブーアラウイ(Mohammed El-Boualaoui)さんという同行者を見つけて来た。彼もアウレフ出身で、ケナドサからモロッコのウジュダ(Oujda)へ行くとのことだった。父は私を頼むことが出来て安堵したようだった。この地域に敷かれた線路はレールの幅の狭いものだったが、コロン・ベシャールを起点に、アイン・セフラ(Ain Sefra)、メシェリア(Méchéria)、サイーダ(Saïda)を経由してペレグー(Perrégeux)まで通じていた。ペレグーから北へは、線路が幅の広いものに代わるので、そこで列車を乗り換えなければならない。私は同行者のブーアラウイさんとペレグーで別れる手はずになっていた。
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第10章 遅い小学生時代W :1952年夏(15歳)

ついにフランスの地を踏む

 トゥールーズ(Toulouse)の空港には、軍医のダビドゥー中尉が迎えに来てくれた。私は、ダビドゥー中尉のことは以前からよく知っていた。彼は以前、アウレフの駐留軍基地の医務室に勤務していて、学校の長い休みの時などにはよく、私がフランスの文通相手に出す手紙を添削してくれたものである。彼はこの時、階級が大尉に昇進していた。大尉は、あいにく軍医の仕事が忙しいとかで、私は彼の両親の家に預けられた。ダビドゥー大尉のお父さんもお母さんもとても優しく、特にお父さんは、滞在中私をいかにして喜ばせるかに心を砕いてくれ、街のあちこちに連れて行ってくれた。私も、どんなに楽しく、どんなに満足しているかを、小父さんと叔母さんに一生懸命伝えた。本当に興味を引かれることがたくさんあって、何度も小父さん達を質問攻めにしてしまった。
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第11章 遅い小学生時代X :1952年夏〜1953年夏(16歳)

名残惜しい日々、帰路に就く

 フランス滞在中、アウレフから私に一通の手紙が届いた。手紙には、1911年にアウレフを離れ今はパリにいるという大叔父(訳注:祖母の兄弟。祖父ハマジがガルダイアで亡くなった時居合わせた人。)の住所が書いてあり、出来るならその大叔父に連絡を取ってくれとあった。私が大叔父に手紙を書いたところ、彼からは電報で返事があり、それによると、今病気で動けないので私に会いに来ることは出来ないとのことだった。この返事に私はがっかりしたが、どうしようもなかった。そうこうするうちに、オセールを離れる日が近づいて来た。出立の日は9月20日に決められた。おかしなもので、私は雷に打たれたようなショックを受けた。私は、フランス滞在が長くなるにつれて、いつの間にか、ずっとここにいて、この地で学校を卒業できるような錯覚に陥っていたのだ。よく考えたらバカな話だった。
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