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アルジェリアの選挙制度と政党

福田 邦夫

1.政治的独立とFLNの独裁

 1954年11月から1962年7月までの7年半にもおよんだ独立戦争を指導した民族解放戦線(FLN ―Front de Liberation Nationale)の最大の目的は、宗主国フランスからの独立であり、何よりも民主主義が保障された豊かな社会を構築することであった。独立後初代大統領に就任したベン・ベラ(Ben Bella)は、非同盟・中立の旗を掲げ第三世界の旗手としてエジプトのナセル大統領、インドのネルー首相らと共に国際舞台で華々しい活動を展開したが、国内ではFLN以外のすべての政党を非合法化し、個人独裁体制を樹立した。

 ベン・ベラによる権力の掌握過程自体、ブーメディエン大佐(Houari Boumediene)が統率する軍隊を背景とした、きわめて暴力的プロセスを経て実現されたものである。このため独立を実現したばかりのアルジェリアは再び悲惨な状況に陥った。すなわちベン・ベラは、FLN代表とフランス政府との間で1962年3月18日に締結された独立協定(エビアン協定)で承認されたアルジェリア共和国臨時政府(GPRA―Gouvernement Provisoire de laRepublique Algerienne)の打倒を目指し、ブーメディエン大佐、ラバ・ビタト(Rabah Bitat)、初代臨時政府首相のアッバス(Fehat Abbas)と同盟を結んで、1962年7月22日、アルジェリア西部の古都トレムセン(Tlemcen)で独立アルジェリアの最高意志決定機関として7名で構成されるFLN政治局(Bureau Politique)の設立宣言を行った。ブーメディエンの率いる軍隊は、モロッコのラバトに置かれていたGPRA事務所も占拠した。同年7月25日には政治局を支持する第一軍管区(wilayaT)によりGPRA閣僚のベン・トバル(Ben Tobbal)が逮捕された。これに対して第三軍管区を指揮するブーディアフ(Boudiaf)とクリム(Belkacem Krim)は第一軍管区支配下のカビリーを制圧し、独立アルジェリアは内乱の危機に直面した。8月3日にはベン・ベラを盟主とする政治局がトレムセンからアルジェに移転されたため、独立アルジェリアはGPRA、政治局、アルジェリアが正式に独立を達成するまでの期間統治に当っていた暫定行政府の三重権力状態に陥り、8月12日に予定されていた憲法制定国民議会選挙は実行不可能となった。政治局は、国民議会選挙を1962年9月2日に行うことを決定し、政治局が推薦する候補者名簿を発表した。だがこの間、独立戦争を担った国民解放軍は政治局を支持するグループとGPRAを支持するグループに分かれて熾烈な軍事的対立を展開、さらに国民解放軍の志気は落ち、一部の兵士は盗賊集団と化して略奪、横領、放火、殺人を繰り返し、独立アルジェリアは無政府状態に陥った。 混沌とした政治的状況のなかでGPRAが壊滅した直後の1962年9月20日に強行された国民議会(一院制)選挙では、政治局により推薦された196名の候補が圧倒的多数の支持のもとに当選し、同月25日には独立アルジェリア初の国民議会が開催された。国民議会選挙とはいえ、一括選挙であり、政治局に推薦された国民議会議員候補を信任するか否かを求める官製選挙でしかなかった※1

 このようにして選出された国民議会は初代アルジェリア共和国臨時政府首相アッバスを国民議会議長に選出し、ベン・ベラに組閣を委任した。翌26日、ベン・ベラは自らを政府首班とする組閣を発表し、新生アルジェリアは出発した※2
だがFLN政治局書記長モハメッド・ヒデール(Mohamed Hider)は、1963年4月16日、ベン・ベラと対立して書記長を辞任して国外に脱出し、同日ベン・ベラはFLN政治局書記長に就任した。ヒデールはブーメディエン時代の1967年、マドリッドで暗殺された

 FLN政治局書記長に就任したベン・ベラは、同年8月には国民議会に何ら諮ることなく憲法草案を提示した。同憲法草案は国民議会で採択された後、同年9月8日に行われた国民投票で承認された。だがベン・ベラは憲法草案を作成するに当り国民議会ではなく、密かに自分の部下に作成させたため憲法草案をめぐってFLN内部で異議申し立て運動が展開された※3

 ベン・ベラに対する個人崇拝の風潮が昂まるなか、憲法制定国民議会議長に選出されたアッバスは、国民議会で憲法草案の採択を求められた63年8月、ベン・ベラの個人崇拝と独裁政治に異議を唱え国民議会議長を辞任した。アッバスは辞任と同時にFLN から除名、逮捕され、1965年5月まで自宅拘禁された※4。アッバスは国民議会議長を辞任するに当たり以下のように述べている。

「憲法制定国民議会のみが主権在民を保障する機関であり、政府と協力して法を制定することのできる権能を持っている。法律を制定する際には、その内容が国民議会で討議される前に、先ず法案として国民議会事務局で討議されなければならない。国民議会事務局に付された法案は国民議会で公式に討議された後でなければ公表されてはならない。しかし政府はこうした原則を蹂躙している。すなわち政府は、実際には存在していない党の幹部連中に憲法草案の是非を諮り、国民議会には諮ろうとしなかった。憲法草案を審議するいかなる権限も持っていないいわゆる党幹部に憲法草案を承認してもらうために、国民議会議員から草案を審議する権限を奪っているのである。こうした事態は権力の乱用であり法の蹂躙である。……FLNは人民の党でなければならないのであり、一部の分派の私有物であってはならない。……社会主義は至福と自由の同義語でなければならない。……それゆえ党の一分派による無秩序な独裁政治は無用な存在である。」※5

 アッバスの逮捕に先立って1962 年11 月にはアルジェリア共産党(PCA― PartiCommuniste Algerien)の機関紙“El Yourriya”が発禁にされ同党は非合法化された。1962年9月には、ブーディアフ(Mohammed Boudiaf)により社会主義革命党(PRS―Parti de la Revolution Socialiste)が結成され、ブーディアフは軍と結託したベン・ベラの個人独裁を激しく批判した。ブーディアフは1954年11月1日の武装蜂起に参加した国民的英雄であったが、1963年6月に逮捕された。同年11月7日、ブーディアフは釈放されるが、同日モロッコへ政治亡命し1992年1月までモロッコで小さな煉瓦工場を経営していた。ブーディアフは、1992年1月16日、シャドリ大統領を辞任に追い込んだネザール国防相・将軍(Khaled Nezzar)によりアルジェリアに呼び戻され同年2月9日、国家高等委員会議長に就任した。だが1992年6月29日、アンナバで大統領警護隊に暗殺された。またブーディアフ同様武装蜂起に参加したアイト・アハメッド(Ait Ahmed)は、憲法制定国民議会のなかで反ベン・ベラ勢力を結集しようとしたが失敗し、1962年11月には国民議会議員の辞任に追い込まれた。このためアイト・アハメッドは1963年9月、社会主義勢力戦線(FFS―Front des Forces Socialistes)を結成してベン・ベラ社会主義に反旗を翻した※6。アイト・アハメッドはFLN内部の反ベン・ベラ派指導者を結集しようと試み、カビリーを拠点として武装蜂起を企図したが逮捕され、死刑判決を言い渡され投獄された。ブーメディエン時代にも獄中生活を送っていたが、1966年に脱獄してヨーロッパに亡命した。ヨーロッパでも社会主義勢力戦線の党首として活動を続けていたが、複数政党制が認められた1989年12月に帰国、1991年3月15日には、FFS党大会を開催している。

 アルジェリア共和国臨時政府を打倒するために結成されたFLN政治局メンバーは当初の7名から1963年度末には2名、すなわちベン・ベラ、ラバ・ビタトのみとなった。

 ところでベン・ベラが作成した新憲法は大統領の任期を5年とし、国家元首としての大統領は政府首班のみならず軍の最高指揮官を兼任することとされた。また第19条は以下のように思想、信条、言論、結社の自由を保障している。

「共和国は出版の自由、表現の自由、結社(liberte d’association)の自由、言論の自由、訴訟の自由、集会の自由を保障する。」
だが22条では19条に対する制限条項が規定されている。
「如何なるものも、国家の独立、領土の保全、国家的統合、共和国の制度、人民の社会主義に対する渇望、FLNの単一性を損なうような自由権を行使することは出来ない。」

 さらに第23条では、「FLNはアルジェリアにおける唯一の前衛政党である」と規定し、第24条では以下のように規定している。
「FLNは国家(nation)の政策を決定し、国家の行動の規範を示す。FLNは国民議会および政府を監視(controle)する。」

 このように新憲法は実態のないFLNに対して国家の命運に係わる重大な責任を付与している。このことはFLN書記長ベン・ベラが総ての権限を掌握したことを示している※7。この点に関してイエフサ教授は以下のように指摘している。

「63年憲法は、党に巨大な権力を委譲している。……また単一前衛政党FLNによる社会主義国家建設の必要性を謳い、FLNは国家機関、行政機関を代表する唯一の組織であることが規定されており、FLNの指導のもとで政治、経済、イデオロギーの総てが決定されなければならないと規定されている。」※8

 新憲法を制定したベン・ベラは、63年9月15日に行われた大統領選挙(ベン・ベラ単一候補)で独立アルジェリアの初代大統領に選出された。大統領に就任したベン・ベラは、新憲法を盾に主要閣僚ポストを次々と独占し、自らを「アルジェリア独立の父」と命名し、国際舞台では非同盟・中立の旗を掲げて華々しい外交を展開した。

 だが先に触れたようにベン・ベラは国内では孤立を深め、日常生活は政敵の摘発に終始した。こうしたなかでベン・ベラは、アルジェリア全土を6区分していた軍管区(wilayas)を解体して15県(departements)を基礎とする地方行政制度を復活し、新知事を任命した。

 しかし中央政府ならびに地方行政制度を担う人材はなく、地方行政の名に値するシステムは不在であった。ベン・ベラ大統領は、かつての盟友ブーメディエン国防相により政権の座から追放された1965年6月19日までの2年8ヵ月間、フランス人入植者が打ち捨てて行った無主財産(biens vacants)の国有化と自主管理運動を軸とした社会主義建設を試みた。だがベン・ベラ時代は、サハラ地下天然資源から金融網に至るまでアルジェリア経済の中枢は依然として旧宗主国フランスに掌握されたままであり、加えてアルジェリア社会は独立後の混乱の只中に置かれ、FLN 内部における権力闘争は依然として燻りつづいていた。こうしたなかベン・ベラ大統領は、1964年4月16〜21日、第1回FLN大会を開催し、社会主義アルジェリア建設に向けての基本的政策を採択したが、その1年後の1965年6月19日にはブーメディエン(Houari Boumediene)大佐が企てたクーデターにより政権の座を追われた。

2.一党独裁から複数政党制へ

(1)ブーメディエンとFLN
1965年6月19日、クーデターにより権力を奪取したブーメディエン大佐は、ベン・ベラを投獄し、63年憲法を廃棄して国民議会を解散した。そしてアルジェリア革命国民評議会(CNRA―Conseil National de la Revolution Algerienne)をアルジェリアにおける最高の決議・決定機関として設立した。同日革命評議会は、ブーメディエン大佐を革命評議会議長、共和国大統領、閣僚会議議長、国防相に指名した。革命評議会は、ブーメディエンによって任命される10〜15名より成るFLN政治局により運営され、政治局の傘下にはFLN中央委員会が設置された。このようにして強大な権力を手にしたブーメディエン大佐は政権掌握直後から一連の政令を発動し、植民地時代の法体系を改め、近代国家の枠組みを整備する作業に取組み、1966年6月2日には、政治・経済機構運営に関する法体系の総合的な整備を関係当局に命令した※9

 革命評議会は、1967年1月18日、自治体法(Code Communal)を発令、同法令に基づいて15県傘下に679自治体議会(APC-Assemblees Populaires Communales)が設立され、自治体議員は直接選挙で選出されることが規定された。また自治体の議長(maire)は、選出された自治体議員により選出されることとされた。

 ブーメディエン大佐が施行した自治体法については本研究所2000年度報告書で詳述したがアハメッド・ルアジャは、以下のように述べている。

「自治体によって設立されたこの新しい制度は、審議会のような性格を付与された議会制度である。自治体議会の議員は、自治体憲章に定められた規定に従ってFLN が推薦した候補者を自治体住民が普通選挙によって選出する制度であり、民主化の第一歩であった。」※10

 事実、同自治体法第34条では、「自治体議員(delegues communaux)は、党が作成した議員候補者の中から選出されなければならない」と既定されていた※11。ただし、党に推薦されず、党員としての資格を持っていない者が立候補する場合には、「人民の立場に立脚して人民に奉仕し、革命の成果を守り、社会主義革命の利益、党の綱領と理念を遵守する」ことを宣誓すれば、候補者として認められた※12

 このようにして策定された自治体法に基づいて1967年2月、1969年5月、1971年2月、15県679の自治体で選挙が行われた。67年と69年の選挙の際には革命評議会が直接、候補者を推薦し、71年には地方自治体所属のFLN細胞が候補者リストを作成した。革命評議会であれ自治体所在のFLN細胞であれ、自治体議員候補者を選定する場合には、党傘下の大衆組織、軍および党細胞等の利益集団の間で恒常的な衝突が繰り広げられた※13

 自治体法により、自治体議長は、法的、政治的、経済的権限が認められているが、あくまでも国家の代理人である県知事に全面的に従属した存在でしかなく、県知事は傘下の自治体の財政を管理し、政府補助金を配分する権限を保有している。

(2)県議会(Assemblee Populaire de Wilaya)の設立

  自治体法を整備した革命評議会は、1969年5月22日政令を公布し、従来の15県(departements)をウイラヤ(Wilaya)に改名し、国家と自治体(commune)の架け橋としての県条例を公布した。同政令により、直接選挙で選出される県議会(APW―Assemblee Populaire de Wilaya)が開設された。ただし県知事(wali)は革命評議会によって任命されることとされ、知事にはFLNおよび国民解放軍幹部が任命された※14

 同条例によれば、県知事は県レベルにおける国家の代表者であり、公共秩序の維持と市民の安全を保障する義務が課されている。県知事は県段階における行政の中軸であり、地方行政機構全体を指揮する役割を担っている。知事は政治的、経済的、法的権限の総てを持っており、政治的決定を下し、県傘下の自治体への予算配分権、県営、自治体経営企業に資金および資材を配分する権限、許認可権、条例を発令する権限を持っている※15。また県知事および県議会は政府が任命し知事の指揮下に置かれている一名の県議会執行委員(executif)によって補佐されるが、県議会執行委員は絶大な発言力を持っている。

 県議会(APW)は自治体議会同様、理論的には「民主集中性の原則」に基づいて設立され、普通選挙によって選出される県議会議員により構成されるが、実質的な権限は与えられていない。

 各県民は、党により作成された県議会議員候補者リストの中から議員を選出しなければならず、選出された県議会議員は、議員以外の職業に就くことができない。県議会は年3回(4月、6月、10月)開催され、会期は15日とされているが、会期を延長するためには県知事または半数以上の議員の要請が必要とされる。

 県議会の運営は制度的には民主的であり、議会は県民公開のもとで開催されることとされているが、実質的には党ならびに政府が用意した討議課題しか討議できず、知事と県議会執行委員が県議会を支配・管理する絶大な権限を持っている。県議会は、知事が提案する県の年度予算案を承認・否認する権限を持っているが、実際には中央政府と知事が提起した予算案を否決した事例は皆無である。

(3)国民議会(APN−Assemblee Populaire Nationale)

 自治体議会、県議会を開設したブーメディエン大統領は、1965年以降解散されたままになっていた国民議会を開設するため、1976年6月、国民投票により国民憲章を採択した。
国民憲章は、アルジェリア社会主義建設の基本路線を確定したものであり、中央政府から地方行政制度に至るまで詳細な規定条項が盛り込まれている。

 同年11月には、先に採択された国民憲章の規定に従って新憲法が採択され、大統領選挙が行われた。アルジェリア革命国民評議会議長ブーメディエン大佐は、政権を奪取してから11年目にして合法的に大統領に就任した。翌77年2月25日には、国民憲章の規定に従って国民議会選挙が行われた。国民議会選挙にはFLN推薦により、定数の3倍に当る783候補が立候補し、261名(任期5年)が選出された。

 なお国民議会選挙に先立って、革命評議会は1974年12月、15県を31県に、91郡(dairas)を160郡に増設し、国民議会議員は、郡を1議員選出区(郡の人口約8万人につき議員1名)とし、郡の人口が10万人以上の場合は2名とされた。しかし、人口希薄な南部のタマンラセット県(Tamanrasset)では人口1万9,000人につき1名、サイダ県(Saida)では4万9,000人につき1名とされた。大統領令によれば、国民議会議員候補者はFLN単独候補者リストの中から選出されなければならないが、候補者は議席数の3倍(一次候補、二次候補、三次候補各261名、計783候補)とされた。しかし77年2月に行われた国民議会議員選挙では、一次候補者として推薦されたFLNの最有力幹部120名のうち98名が落選した※16。一次候補が落選したとはいえ、三次候補もFLNが推薦した候補であり、国民の不満を解消することはできなかった。

 ところで国民議会は議長、副議長(4名)を選出することとされているが、1976年憲法、1989年憲法の第147条、151条では国民議会における決議事項は国家元首の承認が必要とされ、国家元首には国民議会決議事項を拒否する権限が与えられている。さらに国家元首は国民議会事務局への法案提出権限、国民議会に関係なく法律を制定する権限が認められていた(ブーメディエン時代、シャドリ時代も同じ)。

 国民議会選挙が行われたことにより、1965年以降、アルジェリアにおける三権を掌握していた革命評議会は法的には何ら権限を持たない機関となったが、ブーメディエン大統領が死去した1978年まで存続した。

 曲りなりにも近代国家としての法的枠組み作りを完成したブーメディエン大統領は、FLN党の再編に着手し、1978年にはFLN党大会を開催すべく準備にとりかかったが、奇病に襲われ78年12月、享年46歳の若さで死去した。

(4)シャドリ政権(1979年1月〜92年1月)と地方自治体選挙

  79年1月、ブーメディエンの後継者を選出するために開催されたFLN 党大会においてオラン軍管区総司令官であったシャドリ大佐が大統領候補に選ばれ、2月26日に行われた国民選挙で正式に第3代共和国大統領に選ばれた。シャドリ大統領は、1983年10月、「行政改革委員会」を設立して地方分権化をすすめ、1983年12月には31県を48県に679自治体を1541自治体に増設した。

 シャドリ大統領にとっての最大の課題は、ブーメディエン時代の24年間、動脈硬化現象を起こしていた行政制度を蘇生させ、民主的な行政制度を構築することであった。同政権は1992年1月までの12年間存続するが、この間、大統領選挙を3回、国民議会選挙を2回、憲法改正国民投票を2回行い、アルジェリア社会の活性化に努めた。またブーメディエン時代には一度も開催されなかった党大会を5回も開催しFLNの活性化に努める一方、危機的様相を呈していた同国経済の再建に取組んだ。だがシャドリ政権は、石油・天然ガス輸出に全面的に依存した経済からの脱却を図ることができず、1986〜87年には国際市場における原油価格の暴落の波を受けて同国経済は麻痺状態に陥ったため緊急輸入制限を発動した。このため多くの貧しい人々は食糧の入手が困難となり、88年10月にはアルジェリア全土の主要都市で食糧暴動が発生した。食糧暴動を契機としてこれまで蓄積されてきたFLNおよび政府高官に対する国民の不満も爆発し、FLNの事務所や政府の建造物が破壊された。軍が出動したため暴動は数週間で鎮圧されたものの、食料暴動を契機としてイスラーム過激派集団が公然と政治活動を開始するようになった。

 こうしたなかシャドリ大統領は、食糧暴動直後の88年10月25日に開催されたFLN中央委員会においてFLNと軍との関係を断ち切り、軍人がFLN党員になることを禁止した。また88年11月3日、憲法改正の基本案を国民投票により採択し、翌89年2月23日には新憲法を再度、国民投票により採択した※17。1989年2月の国民投票によって採択された新憲法に基づき、1990年6月12日に行われた地方自治体および県議会選挙では与党FLNが大敗し、原理主義政党であるイスラーム救国戦線(FIS)が圧勝した※18

 シャドリ大統領は、選挙後の1990年7月8〜12日に開催されたFLN中央委員会総会に欠席、同総会は選挙結果の評価をめぐり混乱をきわめた。同総会の席上、88年10月暴動の引責で辞任したブラヒミ元首相は、「今回の選挙の敗北の全責任および10月暴動以降今日に至るまでFLNを襲撃している危機の全責任はシャドリ大統領にある」と述べ、シャドリ大統領の退陣を求めた。またメルバ前首相は、「FLNを瓦解させたシャドリ大統領をはじめとする総ての責任者はFLNから離れるべきだ」と発言し、党執行部を激しく非難した※19

 FLNは、シャドリ大統領のFLN中央委員会総会への欠席に示されているように事実上、麻痺状態に陥った。

 

3.イスラミストの台頭

(1)複数政党制

  先に述べたように1989年2月23日に行われた国民投票では複数政党制を認める新憲法が採択された。だが新憲法に基づいて政党法が国民議会で成立する1989年7月5日以前の段階において、政府未公認のまま12政党が設立され、政府=FLNに対する激しい批判を展開していた。こうしたなかで1967年以降海外に亡命していた社会主義勢力戦線(FFS)の党首アイト・アハメッドが、1989年12月15日、23年ぶりに帰国した。その際には数千人の支持者が空港に出迎え、首都アルジェのハラシャ公会堂およびカビリーのティジウズで集会を開催した。ベン・ベラは、1980年3月、シャドリ大統領により釈放され、フランスで亡命生活を送っていたが1989年9月に帰国しアルジェリアの民主化を求める運動(MDA―
Mouvement pour la Democratie en Algerie)を結成し、FLN打倒を目指して活動を開始した。なおベン・ベラとアイト・アハメッドは、1985年12月、ロンドンで会談し、反FLN共同綱領を採択していた※20

 他方、マダニ師(Abbasi Madani) を党首とするイスラーム救国戦線(FIS ― Front Islamique de Salut)は、1989年当初から政党を名乗り政治活動を展開していたが、1989年2月18日、アルジェの労働者街バブ・エル・ウェッドのモスクで新政党の設立を宣言し、全土のモスクを拠点にして政治活動を開始した。FISは同年8月22日に政府に政党設立認可を申請し、翌月の9月6日には政党として認可された。

 同年5月28日には、日刊紙アルジェリア・アクチュアリテ(Algerie Actualite)紙上で民主勢力連合(UFD)、イスラーム救国戦線(FIS)、アルジェリアの民主化を求める運動(MDA)、社会民主党(PSD)、進歩のための諸勢力連合(UFP)、アルジェリア国民党(PNA)6政党の党首が連盟で、FLN独裁政党による不法な政治運営を批判し、国民議会の即時解散を要求する政治声明を発表した。6政党の共同声明は、「現在の国民議会は国民の意思を反映しておらず、民主主義の実現と近代化を希求し、アルジェリアの現状変革を渇望している国民の願望に応えるものではない」と述べ、FLNの独裁的支配下に置かれている国民議会を即時解散するよう求めている。また「新憲法のもとで新たに国民の意思を確認し再出発すべきだ」と述べ、選挙準備期間がないため89年12月22日に予定されている地方選挙(県議会、自治体選挙)の延期を求めた※21

 シャドリ大統領は、こうした野党の要求に対して地方議会選挙を1990年6月12日に延期し、1990年1月8〜10日にかけてベン・ベラの指導するアルジェリアの民主化を求める運動(MDA)を除く5政党との党首会談に臨み、多党制に対する理解ある態度を示した。ところで1989年7月24日に成立した選挙法は大政党にとっては有利であるが小政党にとってはきわめて不利な比例代表制に基づく選挙制度であり、FLNの絶対的安定多数を狙った選挙制度であった。同選挙法によれば、投票の結果、第1位になった政党が得票総数の51%以上を獲得した場合には全議席を獲得することができるとされている※22。また有権者は個人ではなく政党に対して投票することとされた。

 このようにして1990年6月12日、独立後初めて行われた複数政党制に基づく地方選挙では、11政党が候補者を擁立(48県、1,541自治体:投票率は65.1%)して激しい選挙戦が展開されたが、イスラーム救国戦線は32県(全議席444議席のうち335議席)、853自治体で過半数獲得、FLNはわずか14県(84議席)、487自治体でしか過半数を獲得することができなかった。FLNに次ぐ議席を獲得したのはベルベル語圏を政治基盤とする文化民主連合(RCD―Rassemblement pour la Culture et la Democratie)であり、同党はティジウズ県と同県下の87自治体で過半数を獲得した※23

 地方自治体の選挙では、カビリーを中心とするベルベル文化圏を基盤としていた社会主義戦力戦線(FFS)ならびにベン・ベラを党首とするアルジェリアの民主化を求める運動(MDA)は議席を獲得することができなかった。このことは独立戦争時代の英雄が国民から見放されてしまったことを示している。カビリー地方では、FFSの党首アイト・アハメッドが国外に亡命していた間に、サイダ・サディー(Said Sadi)を中心に1988年11月、ベルベル文化運動(MCB―Mouvement Culturel Berbere)とMCBを政治基盤とする政治政党、文化民主連合(RCD)が結成された。文化民主連合は、カビリーを中心とする87自治体で過半数を制したが、ベルベル語の使用が公的に認められる自治県(departement autonome)が設立されればRCDを解散する、と宣言し同政党の非政治性を主張している。RCDは、地方選挙後の7月5日、FLNとともに反FIS戦線を結成し、ハムルーシュ首相(当時)にベルベル文化圏の自治を要求した※24

 FISとは対照的にFLNはその無力さを完全に露呈した。FISはFLNがデモ行進を予定していた同年4月20日に首都アルジェでデモ行進を行うことを発表した。これに対して4月17日、FLNとFISの激突を懸念した18政党の党首は、双方に話し合いを行いデモ行進を中止するよう勧告した。だがFISはこれを無視して当日デモ行進を決行した。当日の正午、モスクから祈祷の声が流れはじめたのを合図に10万人以上のFIS支持者が大統領府の前に集まり、地面に伏して祈祷を行った。その後、5月1日広場に結集し党首マダニ師を先頭に15項目の要求を掲げて整然とアルジェ市内をデモ行進した※25
  他方FLNはアルジェで予定していた当日のデモを中止し、同月19日に地方都市でデモを組織した。しかしオランではわずか100人、アンナバでは200人程度しか結集することができず、コンスタンチーヌではデモ行進が取り止めになった。

 FISの動員力に驚愕した文化民主連合、アルジェリア人権同盟、社会主義前衛党(PAGS―Parti de l’Avant-Garde Socialiste)は、5月17日、約15万人の市民を動員し宗教と国家の分離、民主主義の確立、女性の権利確立をスローガンに掲げて「民主主義の行進」を組織した※26

(2)イスラミストの台頭

  FIS支配下の自治体では、これまで公共施設に掲げられていたシャドリ大統領の写真が取り払われ、イスラーム一色に塗り替えられた。これら自治体では、一日の仕事はコーランが朗読された後で開始され、コーランの朗読で終えられるようになった。セティフ市、コンスタンチーヌ市、オラン市、アンナバ市等の大都市では、男女共学が禁止され、アルコールの販売、水着およびショートパンツの着用が禁止された。さらにアンナバ市では、FIS選出の市長の命令に従わず、ハイク(イスラーム女性が着用する衣服)の着用を拒否した助役(女性)が解任されている。FISの公娼制度廃止要求は根強く、90年6月にはアンナバ市の娼館に11名のイスラミストが放火し、幼児一名が焼死している。この事件に対して地方裁は、主犯1名に20年の禁固刑、残りの10名に12年の禁固刑の判決を言い渡した。政府=FLNは、FISによるアルジェリアのイスラーム化運動を前にしてFIS支配下の自治体に対する政府補助金の支給を中止した。それどころか1990年6月30日にはバブ・エル・ウエッドにあるFIS本部を軍隊が包囲し、党首アバッシ・マダニ師を初め党幹部約300人が逮捕された。

 こうしたなかで財政基盤を喪失したFISは自治体権力を独占していた社会集団に対する激烈な批判を開始し、イスラーム化運動に共鳴し経済的支援をしてくれるパートナーを捜し求めた。自治体を構成している社会集団に関してフランス国際問題研究所のマルチネ(Luis Martinez)女史は首都アルジェ近郊の自治体を例に挙げて3つの集団を指摘している。その1は国営企業(靴製造工場、冷蔵庫製造工場等)の責任者、その2は独立戦争に参加した報償としてミティジャ(Mitidja)を中心とする地域でフランス人入植者(コロン)が打ち捨てて行った無主財産(農場、農業関連工場等)を独立直後に私物化することが許された軍属であり、私物化した農地を売却し莫大な財産を築いた集団である。その3は小商人グループである※27

 FISが最初に標的にしたのは国営企業の責任者であり、戦闘的イスラミストは国営企業責任者の公金横領を批判し、非効率な経営を糾弾した。次にFISは軍属グループを糾弾した。

 軍属グループとは独立直後に無主財産の私物化を許され蓄財に成功した独立戦士グループであり、それには1980年代末に国有地を与えられた新興土地成金グループも含まれる。1980年代に生れた新興土地成金グループとは、農業革命を放棄したシャドリ政権が地主から没収し国有地に編入した農地の民営化政策に端を発する。すなわちシャドリ政権はブーメディエン時代に没収した広大な農地を元の地主に返還せず功績のある現役軍人および退役軍人に報奨として与えた。具体的には1988年5月19日の閣議決定により1963年と1971年の農業革命開始時以降、国有化された土地は功績のある現役軍人および退役軍人に報償として分配されることが決定された。その直後、全国で農地を没収された地主や農地を政府に寄贈した地主による土地償還運動が展開されている※28。マルチネ女史は、軍属軍人グループの職種について、小さな町工場の経営者、食料品・雑貨商店主、ハマム(公衆浴場)経営者、自動車修理・販売店主からフランスでのホテル経営者等を指摘しているが、自治体住民が必用とする物資の殆ど総ては、軍属グループによるヨーロッパからの密輸品によって供給されていた。換言すれば、地方自治体の経済活動はFISが権力を掌握する以前からこれらインフォーマルセクターを基軸として成立していたのであり、FISにより糾弾された地元の有力者はモスクを建設し或いはFISに献金することにより既得権益を守りつづけたのである。マルチネ女史はFIS党首アバッシ・マダニ師が愛用していたメルセデス・ベンツは、元FLN解放戦士で、独立後フランス人コロンの土地を私物化して実業家にのし上がったアルジェリア有数の富豪ハッジ・ソドック(Hadj Sodok)から贈られたものであると指摘している。

 FISは第三グループの小規模商店主の利益を徹底的に擁護した。輸入品は政府の厳格な管理下に置かれ、各自治体の保税倉庫(entrepots)に配給され、小規模商店主は保税倉庫から公定価格で購入しなければならない。だが公定価格で輸入品を購入することは不可能であり、闇価格でなければ実際には入手できない。他方、闇価格で仕入れた輸入品は、仕入れ価格にマージンを上乗せして販売することはできない。なぜなら小売価格は政府の厳格な統制下に置かれていたからである。確かに1989年7月、シャドリ政権は価格統制システムを撤廃したが、価格自由化が適応されたのは工業製品のみであり、生活必需品に対しては厳格な価格統制が維持されていたからである。こうしたなかFISは法外な闇価格で輸入品を卸す保税倉庫の腐敗した制度を根底から改革したため小規模商店主はFISによる自治体権力掌握を歓迎し多大の財政支援を惜しまなかった※29

(3)国民議会選挙

  自治体選挙で敗北を喫したシャドリ大統領は、国民議会選挙を当初予定していた1991年3月から同年12月25日に延期して選挙に臨んだ。だが先に触れたように国民の支持基盤を喪失したFLNは大敗し、FISが圧勝した。

 選挙結果を前にしてネザール(Khaled Nezzar)国防相は軍を代表して大統領に辞任を迫り、1992年1月15日、シャドリ大統領は辞任した※30。辞任したシャドリ大統領は軍により1999年10月30日まで自宅軟禁され、軟禁を解除された翌日オランダへ出国した※31。なおネザール国防相は、1990年7月5日の独立28周年記念日にシャドリ大統領により将軍に昇格され、同年年7月25日に行われた組閣の際、国防相に任命されたばかりであった。国防相のポストは、1965年5月に廃止され大統領が兼任することとされていたが、シャドリ大統領は1990年7月25日の組閣で大統領による兼任制を廃止し、腹心の部下ネザール将軍を任命したばかりであった。
  軍はシャドリ大統領辞任を受けて、大統領府に代わる機関として高等公安評議会(HCS−Haute Conseil de Securite)を設立し、同評議会の名において1月16日に予定されていた第2回国民議会選挙の中止、国民議会の解散を宣言した。高等公安評議会(HCS)は、シャドリ大統領の任期が切れる1993年12月までの期間、大統領に代わって職務を遂行する機関として設立された。そして軍はベナビレス(Abdelmalek Benhabyles)憲法評議会議長に公安議会議長、すなわち暫定大統領就任を依頼した。だがベナビレス議長が就任を拒否したため、同評議会は暫定行政府機関として5名のメンバーにより運営される国家高等委員会(HCE−Haute Comite d’Etat)を設立し、モロッコに亡命していたブーディアフ(Mohamed Boudiaf)を呼びもどして同委員会議長に任命した。

 国家高等委員会(HCE)議長に就任したブーディアフ議長は、1992年2月9日には非常事態宣言を発動し、3月4日にはFISに解散命令を出した。3月9日にはFISが多数を占めている14県議会(全県48のうち32県の議会でFISが多数を占めていた)、397自治体議会(全自治体1,541のうち850自治体でFISが多数を占めていた)を解散した。さらに同年12月10日には186の自治体議会を解散した※32

 またブーディアフ議長は、1992年2月22日、ゴザリ(Sidi Ahmed Ghozali)を首班とする内閣を組閣し、4月22日には国民議会に代わる機関として国民諮問委員会(CCN―Conseil Consultatif National)を設立した。同諮問委員会のメンバーには各界から60名が指名された。

 しかしブーディアフ議長は、1992年6月29日、アンナバの市民会館で大統領警備隊員に銃撃され暗殺、このため高等公安評議会(HCS)は、7月2日、国家高等委員会のメンバーのアリ・カフィー(Ali Kafi)大佐を議長に任命した。また7月8日にはゴザリ首相が辞任したため、アブデサラーム(Belaid Abdessalam)を首相に任命した。辞任したゴザリ首相、アブデサラーム新首相の二人はアルジェリア経済の根幹を担う炭化水素公団(SONATRACH)の創設者であり、ブーメディエン時代のエネルギー政策の最高責任者でもあった。

 辞任に追い込まれたシャドリ大統領の任期が切れるまでの期間、大統領府の代替機関として設立された高等公安評議会は、1994年1月30日、ゼルアール(Lamine Zeroual)将軍を大統領に指名して国家高等委員会を解散した。ゼルアール将軍は大統領に指名される前年の1993年10日、健康上の理由で辞任したネザール国防相の後任に任命されていた。

 ゼルアール大統領にとって最大の課題はテロ旋風を沈静化し、1992年以降麻痺状態になっている議会制度を再起動することであった。民主主義的ルールを築く手順に関しては、既に国家高等委員会により大まかなプランが作成されていた。すなわち、アリ・カフィー国家高等委員会議長は、1993年6月、同委員会の名のもとに「移行期に関する国民的合意を確立するための綱領草案」(avant projet de plateforme portant consensus nationale sur la periode de transition)を発表した。同綱領草案は、同国が置かれいる異常事態を「移行期」(periode de transition)として設定し、以下のように述べている。

「国家高等委員会は、遅くとも1993年12月までにその任期を終える。同日までに大統領選挙および国民議会選挙を行うことは技術上、政治上の理由により不可能であり、移行期を設けることが必要とされる。移行期は国家高等委員会の信任期間が終了した翌日からはじまる。移行期は大統領選挙および国民議会選挙を行うために必要な条件が整うまでつづくが、その期間は最低2年とし、いかなる場合にも3年を超えることはない。」※33

 同綱領草案は国民投票により採択されることになっていたが、FLNをはじめ主要野党が反対したため国民投票は不可能な事態に陥り、アリ・カフィー議長は国民諮問委員会(CCN)を召集して採択した。国家高等委員会は国外亡命中のブーテフリカ元外相に移行期を統括する大統領への就任を依頼したが断られたため、全権を高等公安評議会(HCS)に委譲して解散した。このようにして高等公安評議会は1994年1月30日、ゼルアール将軍を大統領に任命し、国民議会の代替機関であった国民諮問委員会(CCN)を解散し移行期国民評議会(CNT−Conseil Nationale de Transition)を設立した。大統領に指名されたゼルアール将軍は、移行期国民評議会(CNT)のメンバー180名を任命すると同時に、事態の正常化を目指して野党との対話を開始した※34。そして1995年11月16日には大統領選挙を行い、国民の圧倒的多数の信任を得て自らの正統性を確立した。1996年11月28日に憲法改正国民投票を、翌97年6月5日には国民議会選挙を、10月15日には自治体および県議会選挙を、12月27日には国民評議会の選挙を行い2院制に基く議会制度の構築を完了した。しかしゼルアール大統領は、1998年9月11日、任期を1年残したまま辞任宣言を行ったため、翌1999年4月15日に行われた大統領選挙でブーテフリカ(Abdelaziz Bouteflika)新大統領が選出された。

 

4.議会制度の再構築

(1)大統領選挙と野党

  1994年1月、大統領に指名されたゼルアール将軍にとって最大の課題は、民主的手続きを経て大統領としての信任をとりつけること、そしてアルジェリア全土でテロ活動を繰り広げているイスラーム軍事集団を殲滅し、1992年1月以降停止している政府および地方行政機構を蘇生することであった。大統領選挙は95年11月16日に行われたが、FIS、社会主義勢力戦線(FFS)、FLNをはじめとする主要7政党は大統領選挙のボイコットを呼びかけた。
またイスラーム軍事集団(GIA)は、投票参加者を殺害することを宣言、イスラーム救国軍(AIS)は選挙当日、外出しないよう国民に呼びかけた※35

 1995年11月16日、緊迫した雰囲気のなかで行われた大統領選には40名が立候補した。しかし正式に候補者として認定されるためには48県のうち25県の有権者から7万5,000名の推薦人署名を必用とし、大統領候補の最終的認定は憲法評議会が行うこととされた。このため大統領候補として、ゼルアール将軍の他、イスラーム社会運動ハマス(MSI―Hamas:Mouvement de la Societe Islamique)の党首ナハナハ師(Mohfoud Nahnah)、カビリーのベルベル文化圏を基盤とする文化民主連合(RCD)の党首サイド・サディ、超ミニ政党のアルジェリア新政党(PRA―Parti pour le Renouveau Algerien)の党首ブクルーNuredine Boukrouh)の4名が公認された。なおゼルアール将軍よりも人気の高かった元首相レダ・マレクは、共和国同盟(ANR―Alliance National Republicaine)を結成して大統領選に出馬したが、憲法評議会は同候補を不適格候補として大統領選挙候補認定を拒否した。これに対してレダ・マレクは、法定署名人名簿を選挙管理委員会に提出したとして抗議した。しかし憲法評議会は同氏の抗議には耳を貸さず、大統領候補として公認した上記4名の法定署名人の名簿も公表しなかった※36

 11月16日に行われた大統領選挙は、主要野党勢力によるボイコット宣言が行われたにもかかわらず政府発表によれば投票率は74.92%であり、91年12月の投票率59%を大きく上回った。投票参加者数も91年12月の1,250万人に対して今回は1,600万人に達した※37

 ゼルアール将軍(当時54歳)は投票総数の61.34%を獲得して大統領として信任(任期5年)された。イスラーム社会運動ハマスは25.58%、文化民主連合は9.60%、アルジェリア新生党は3.18%獲得した※38

(2)国民議会選挙と民主国民連合:1997年6月5日

  1995年11月16日の大統領選挙の際には4党しか公認されず、しかも殆どの野党が大統領選挙をボイコットした。だが1997年6月5日に行われた国民議会選挙には公認政党62のうち39政党が約7,000名の候補者を擁立して選挙戦に臨んだ。選挙結果は表1に示されるように民主国民連合(RND)が156議席、平和のための社会運動(MSP)が69議席、FLNが62議席、進歩のための運動(ENNAHDA)が34議席を獲得した。

表1 国民議会選挙結果(1997年6月5日)

  得票率(%) 議席数
(1) 民主国民連合
RND(RASSEMBLEMENT NATIONAL DEMOCRATIQUE) 33.69 156
(2) 平和のための社会運動
MSP(MOUVEMENT DE LA SOCIETE POUR LA PAIX) 14.81 69
(3) 民族解放戦線
FLN(FRONT DE LA LIBERATION NATIONALE) 14.20 62
(4) 進歩のための運動
ENNAHDA(MOUVEMENT ENNAHDA) 8.72 34
(5)社会主義勢力戦線
FFS(FRONT DES FORCES SOCIALISTES) 4.44 20
(6)文化と民主主義のための連合
RCD(RASSEMBLEMENT POUR LA CULTURE ET LA DEMOCRATIE) 4.24 19
(7)無所属
INDEPENDANT 4.54 11
(8)労働党
PT(PARTI DES TRAVAILLEURS) 1.88 04
(9)共和国進歩党
PRP(PARTI REPUBLICAN PROGRESSISTE) 0.62 03
(10)民主・自由同盟
UDL(UNION POUR LA DEMOCRATIE ET LES LIBERTES) 0.47 01
(11)社会・自由党
PSL(PARTI SOCIAL LIBERAL) 0.35 01

有権者数:16,767,309
投票総数:10,999,139
無効投票: 502,787
有効投票:10,496,352
棄権: 5,768,170
投票率: 65.60%
(出所)El-Watan 1997年6月6〜7日

 今回の選挙で380議席中156議席を獲得した民主国民連合(RND)は、国民議会の代替機関である移行期国民評議会(CNT)議長ベンサリーハ(Abdelkader Bensalah)により1997年1月に設立された。だが同党設立の功労者はアルジェリア労働総同盟(UGTA)議長ベンハムダ(Abdelhak Benhamouda)であり、アルジェリア最大の労働組合UGTAを総動員することにより設立された。その目的は国民議会選挙に備えてゼルアール大統領の政治基盤を構築し、権威を喪失したFLNに代わる強力な政党を設立することであった。当初、ベンハムダ議長がRCD党首に就任することになっていたが、RCD設立最終段階を迎えた97年1月、同議長が暗殺されたためベンサリーハが党首に就任した。民主国民連合には数多くのFLN党員が合流し瞬く間に最大の政治基盤を構築した。RCDの第一回党大会は、1998年4月開催されたが、同党大会においてベンサリーハ議長はFLNの最右翼の指導者タハール
(Muhamad Tahar)を議長に指名して辞任した。

 第2位の平和のための社会運動(MSP)は、旧イスラーム再生運動(Hamas:Mouvementde la Renaissance Islamique)が国民議会選挙に際して名称を変更したものであり、ハマスは1992年3月に非合法化されたFIS内の穏健派により設立された。ハマスはアルジェリアがテロ旋風に見舞われた期間も政府公認政党として活動を展開しつづけた。党首はマフード・ナハナハ師(cheikh Mahfoud Nahnah)であり、敬虔なイスラーム教徒の中に多くの支持者をもっている。ハマス(イスラーム再生運動)が名称を変更したのは、1997年3月、移行期国民評議会(CNT)が宗教政党の政治活動を禁止した新憲法に基いて総ての政党に対して同年6月末までに政党の再登録を行うよう求めたからである。このためハマスは政党名を変更することによりその存続を認められた。だが初代大統領ベン・ベラが率いるアルジェリアの民主化を求める運動(MDA)を初めとする8政党が公認を取り消された。

 平和のための社会運動(MSP)同様、イスラーム政党であるエナハダ(Mouvement ENAHDA)は、主としてアルジェリア東部一帯において強い影響力をもっているが、1999年4月には党内抗争が激化したため分裂寸前の状態に陥っている。

 国民議会選挙を終えたゼルアール大統領は、同年6月、ウヤヒア首相(Ahmed Ouyahia)に組閣を命じ、同首相は6月5日に新内閣閣僚名簿を発表した。新内閣には表2に示されるように民主国民連合(RND)から24名が入閣、平和のための社会運動(MSP)およびFLNから各々7名が入閣しているが、主要ポストは総て民主国民連合とFLNが占めている※39

表2 党連立内閣(1997年6月25日組閣)

  議席 閣僚
民主国民連合
(RND-Rassemblement National Democratique) 156 24
平和のための社会運動
(MSP-Mouvement de la Societe pour la Paix) 69 7
民族解放戦線
(FLN-Front de la Libetation National) 62 7
  287 38
  国民議会選挙を終えたゼルーアル大統領は、国民議会選挙と同じ比例代表制(ドント方式)を導入し、1997年10月23日、1992年以降機能停止状態に陥っていた県議会(48県)および自治体(1541自治体)選挙を行った。県議会議員総数は1,880名、自治体議員総数は1万3,123名であり県議会選挙の投票率は67.7%、自治体選挙の投票率は62.7%でしかなかったが、いずれの選挙においてもRND(民主国民連合)が過半数を獲得した。

表3 県議会選挙結果(1997年10月25日)

  獲得議席
民主国民連合
(RND-Rassemblement National Democratique) 986議席
民族解放戦線
(FLN―Front de Liberation National) 373議席
平和のための社会運動
(MSP-Mouvement de la Societe pour la Paix) 260議席
進歩のための運動
(Mouvement ENAHD) 128議席
社会主義勢力戦線
(FFS-Front des Force Socialistes) 55議席
文化と民主主義のための運動
(RCD-Rassemblement pour la Culture et la Democratie) 50議席
その他 3議席

有権者総数……… 15,809,341
投票総数……… 9,917,699
投票率……… 62.73%
(出所)渡辺伸著「アルジェリア危機の10年」文芸社、2002年.235ページ。


  また1997年12月25日には上院(Conseil National)選挙が行われた。上院議員の定数は144であるが、県議会および自治体議会議員1万5,003名の中から議員の直接選挙により選出される。ただし144名中の3分の2の議員(96名)は議員の直接選挙で選ばれるが、残りの3分の1の議員(48名)は大統領任命議員である。大統領任命議員は地方議会議員である必要はなく、大統領が有能であると認めた者を指名することが出来る(憲法第3節第101条)。
  上院議員の被選挙権は40歳以上とされており、各県より2名選出される。上院議員に選出された者は兼職を禁止され、県議会議員或いは自治体議員であることを止めなければならない。上院議員の任期は6年とされ、3年毎に半数(77名)の入れ代えが行われる。
上院議員選挙では民主国民連合が上院において圧倒的多数を占めたが、上院議長には元FLN書記長のシェリフ・メサディア(Cherif Messadia)が選出された。

 このようにしてゼルアール大統領にとって最大の念願であった議会制民主主義が構築された矢先の1998年9月11日、ゼルアール大統領は任期を1年残したまま突如、辞任宣言を行った。辞任宣言をしたゼルアール大統領の後継者を選出するため、99年4月15日、大統領選挙が行われた。大統領選挙には48名が立候補の意向を表明したが、最終的には7名が大統領候補として認められ、3月25日から大統領戦が展開された。有力視された候補は以下3名であった。

(1) 16年間(1963〜79年)一貫して外相の地位にあったブーテフリカ(Abdelaziz Bouteflika)、65歳。同候補はブーメディエン死後、大統領候補と目されていたが、軍が反対したためシャドリ大佐に破れた。シャドリ時代に国庫横領罪で告訴されアラブ首長国へ政治亡命し政治活動から遠去かっていた。1994年には軍により大統領就任を求められたが拒否。今回は、与党の民主国民連合(RND)、民族解放戦線(FLN)、アルジェリア労働総同盟(UGTA)の支持を受けて立候補した。
(2) 社会主義人民諸勢力戦線(FFS)党首のアイト・アハメッド(H.A.Ahmed)、72歳。
カビリー地方における独立戦争の指導者。独立直後、反旗を翻して武装蜂起を試みたが国軍に破れて逮捕、死刑宣告を受けて1966年まで投獄、以降スイスに亡命、1989年に帰国。1992年には再びスイスに政治亡命して軍事政権を批判しつづけていた。ベルベル語圏に支持基盤を持っているが老齢であり、選挙戦開始直後、心臓麻痺で急遽スイスの病院に搬送されていた。
(3) シャドリ時代の13年間、教育相、情報相、外相を歴任したタレブ・イブラヒミ(A.T.Ibrahimi)。イスラーム救国戦線(FIS)の信任が最も厚く、今回の選挙においてFISは同候補の支持を決定していた。

 上記3名の他、シャドリ時代のハムルーシュ(首相、ゼルアール時代のスィーフィ首相およびゼルアール大統領の元顧問であったカタビ(Y.El Khatib)、イスラーム政党エナハダ(Ennahda)の元党首で、同党のブーテフリカ支持決議に抗議して離党したジャバラが名前を連ねていた。

 アルジェリア人移民が最も多いフランス(有権者は68万763人)では、4月10〜15日にかけて投票が行われ、ブーテフリカとアイト・アハメッドの2候補が首位を争った。だが投票日直前の4月14日、6名の大統領候補は共同声明を発表し、突如、大統領立候補を取り辞めた。その理由は、投票日の治安を確保するため、という口実のもとに4月13〜14日の両日、75万人の治安維持軍を対象に軍の駐屯地で投票が行われ、人民国軍参謀本部は軍に対してブーテフリカに投票するよう命令を下した、とされている。6名の大統領候補が辞任したため、事実上ブーテフリカ単独候補を選出する形となったが、投票率は60.25%、ブーテフリカは73.79%を獲得して第6代目大統領に就任した※40

5.おわりに:2002年5月の国民議会選挙に向けて

  大統領選に勝利したブーテフリカ新大統領にとって最大の課題は、国民相互間の信頼関係を築き、危機的状況に直面している同国経済を再建することであり、早急に新内閣を組閣することであった。大統領就任後、新内閣の人選をめぐり組閣は大幅に遅れたが1999年12月23日、ハムダニ(S.Hamdani)内閣が総辞職し、同日ブーテフリカ大統領はFLN書記長のベンビトゥール(A.Benditour)上院議員を首班とする新内閣名簿(28閣僚、内新閣僚14名)を発表した※41。同内閣には“ブーテフリカ・ボーイ”といわれていたハミッド・トウマール(Hamid Temmar)が民営化相として入閣した他、ブーメディエン時代権力の中枢にいたゼルフーニ(Y. Zerhouni)が自治・内務相に、財政相には故ブーメディエン大統領の経済顧問であった経済学者ベナシュヌー(A.Benachenhou)が就任した。

 しかしベンビトゥール首相は、2000年8月26日に辞任したため、同日、ブーテフリカ大統領はFLN書記長ベン・フリス(Ali Benflis:55歳)を首相に指名した。ベン・フリスは、1968年10月にブリダ県の裁判所判事に就任、次いでバトナ裁判所の判事(1970〜1971年)、1972年には判事を辞任して弁護士事務所を開設した。1987年にはアルジェリア人権同盟を設立、シャドリ時代の1991年には法相に就任し、1992年3月、ブーディアフ議長により法相の続投を要請されたが辞任して弁護士活動を再開した。1997年にはFLN中央委員に選出されベン・ハムダ書記長の右腕として活躍した。1999年4月の大統領選ではブーテフリカ候補の選挙総参謀を務めて勝利した。1999年12月25日には大統領府総務長官に任命され、ブーテフリカ大統領の右腕と命名されていた。このようにしてベン・フリスは首相に任命され、2001年9月20日に開催されたFLN中央委員会総会で首相を辞任したベンハムダFLN
書記長の後任に選出された※42

 2001年5月30日、ブーテフリカ大統領は内閣の部分的改造を行い、ハミッド・トウマール民営化相を通商相に降格し、ベナシュヌー財政相を更迭した。ベナシュヌーの後任には通商相のムラド・メデルシ(Mourad Medelci)が、民営化相にはアルジェリア再生党の創立者であり、証券会社社長のヌレディン・ブクルーフ(Noureddine Boukrouh)が任命された。

 こうしたなか2002年5月30日には国民議会選挙が予定されており、民主国民連合(RND)、民族解放戦線(FLN)を初めとする各政党派は激しい選挙戦を展開している※43。なお社会主義勢力戦線の(FFS)ジェダイ(Ahmed Djeddai)書記長は、2002年3月29日、5月の国民議会選挙への不参加を宣言した。同書記長は、2001年4月18日以降、激化の一途を辿っているカビリーの叛乱が沈静化しておらず、選挙を行う前提としてカビリー問題を解決すべきであると主張している。またFFSのみならず、イブラヒミ(Taleb Ibrahimi)元外相が率いるワファ党(Wafa wal Adl:忠誠と正義)、ハムルーシュ(Mouloud Hamrouche)元首相が率いる自由を求める運動(MD-Mouvement pour la Liberte)も選挙不参加を決定するものとみられている※44


―― 注――

※1 1世紀以上にわたったフランスによる植民地支配の終焉を前にして繰広げられたFLNの内部抗争は悲惨であり、8年もの独立戦争により疲弊の極みにあった大衆には、この内部抗争に参加するエネルギーはなかった。このためブーメディエン大佐のアルジェ進軍に際しては、約1,000人の犠牲者を出すにとどまり、FLN 内部抗争が大規模な内乱へと発展することはなかった。
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※2 Henri Alleg (sous la direction), La Guerre d’Algerie, Temps Actuels, Paris, 1981, vol.3. pp.415〜418.
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※3 Abdelkader Yefsah, La question du pouvoir en Algerie, A.P.Editions, Alger, 1990.p.128.
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※4 この間の情勢については以下を参照。Ferhat Abbas, L’Independence confisqee, Editions Frammarion, 1884.
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※5 Annuaire de l’Afrique du Nord 1963.pp.843〜844.
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※6 Abdelkader Yefsah, La question…,pp.124 〜126.
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※7 Constitution de la Republique Algerienne Democratique et Populaire(J.O.R.A., No.64.10 septembre 1963, p.888 et sv), Annuaire de l’Afrique du Nord 1963. pp.852〜858. 大統領選挙の結果については前掲書859〜861ページを参照。
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※8 Abdelkader Yefsah,La question…p.132.
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※9 同政令は、暫定3カ年計画(1967〜1969年)および第一次4カ年計画(1970〜1973年)の遂行を射程に入れたものでもあった。
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※10 Ahmed Rouadjia. Grandeur et Decadence de l’Algerie.Karthala.1994.p.191.
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※11 Journal Officiel de la Republique Algerienne, 18 janvier 1967.p.8.
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※12 Ibid.p.8.
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※13 「しかし党は、地方行政に対する自らの特権を放棄するようなことはしなかった。
また選出された地方議会議員に対して党の独占的支配権を行使することによって民主主義と国家の尊厳を傷つけるようなことはしなかった」Ahmed Rouadjia 、op.cit.,p.191.
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※14 A.Remli, L’Administration algerienne,Paris,Berger−Levrault,1973.p.26
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※15 Ahmed Rouadjia、op.cit.,p.191.
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※16 Hubert Michel. Algerie: Chronique Politique, Annuaire de L’ Afrique du Nord,1997. Editions du CNRS Paris, pp.473 〜478.
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※17 新憲法第39条では、信条の自由および結社の自由、集会の自由が認められた。第40条では、基本的人権、国家主権・独立・統合を脅かす者でない限り政治的性格を有する団体(association)を設立する自由、すなわち政党設立の自由が認められた。第53条では労働組合結成の自由が、第54条では制限付ではあるがストライキ権も認められた。しかし大統領権限を規定した第74条第3項では「大統領は閣議の議長を務める」、第5項では「大統領は首相を任命し、かつ罷免する権限を有する」とされており、国民議会が首相を選出する権限を否認している。しかし何よりも、新憲法は76年6月の国民憲章および76年11月の憲法において強調されていたFLNが果たすべき役割について何ら言及しておらず、FLNと政治の分離を示唆している。
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※18 当初、自治体選挙および県議会選挙は1989年12月13日に予定されていたが、シャドリ大統領は、地方選挙を延期し、この間の1990年4月には県知事の権限を著しく強化する政令を発令している。総人口2,450万人のうち有権者は1,300万人。Jacque Fontaine, Les elections locales algeriennes du 12 juin 1999. Monde Arabe,
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19 Marche Tropicaux, 1990-7-20.p.
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※20 Tribune Octobre,1990-6-21.
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※21 Algerie Actualite,1990-5-28.
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※22 拙稿「大統領選挙とゼルアール体制」日本アルジェリア協会マグレブ・レター(no.36)1996年3月参照。
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※23 選挙結果は1990年6月14日のEl Moudjahid紙に公表されている。
Maghreb-Machrek, 1990 juillet, Aout septembre 1990, no.129. pp.124〜140.
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※24 Benjama Stora, Akram Ellyas, Les 100 portes du Maghreb, Les Editions Dahlab, Alger, 1991. p.266.
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※25 Jeune Afrique, 1990-5-7
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※26 El Moudjahid, 1990-5-18.
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※27 Luis Martinez, La guerre civile en Algerie, Centred’etudes et de recherches internationales, Paris, Editions KARTHALA, 1999. pp.47〜51.
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※28 “D’anciens proprietaires reclament la restitution de leure terres” Le monde, 1989-5-25.

※29 Luis Martinez, La guerre civile en Algerie …pp.55〜56.
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※30 無血クーデターの事実上の最高責任者であったネザール国防相は、93年7月10日、健康上の理由で国防相を辞任し米国へ治療に出かけた。後任には退役将軍ゼルーアルが就任した。
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※31 Le monde,1999-10-31.
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※32 Marches Tropicaux et Mediterraneens,3 avril 1992.p.865.
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※33 Ministere des Affaires Etrangers de l’Algerie, avant projet de plateforme portant consensus nationale sur la periode de transition.22 juin 1993.
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※34 Marche Tropicaux et Mediterraneens,28 fevrier 1994.p.205.
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※35 拙稿「大統領選挙とゼルアール体制」日本アルジェリア協会マグレブ・レター(no.36)1996年3月参照。
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※36 Marche Tropicaux et Mediterraneens, 1 decembre 1996,p.2634.
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※37 Marche Tropicaux et Mediterraneens, 1 decembre 1996,p.2634.
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※38 El Moudjahid,18 novembre 1995.
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※39 国民議会選挙の結果およびウヤヒア内閣については以下に詳しい。渡辺伸著「アルジェリア危機の10年」文芸社、2002年.216〜231ページ。
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※40 大統領選挙の結果については以下に詳しい。渡辺伸著「アルジェリア危機の10年」
文芸社、2002年.285〜299ページ。
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※41 ベンハムダは、2001年9月20日のFLN中央委員会総会で辞任し、ベン・フリス首相が書記長に選出された。
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※42 ベンフリス首相のポートレイトは以下に詳しい。Jeune Afrique/L’Intelligent. no.2124. 2001-9-25〜10-1.pp.76〜78.
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※43 選挙に関する政令97−07号によれば、住民8万人につき1議席が割り当てられているが、現行の選挙区の人口が4万人増加するごとに1議席増設される。また人口が35 万人以下のウイラヤ(県)では4議席以上の議席が割当てられねければならない、とされている。El Watan.2002-2-13.
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※44 El Watan.2002-3-30.他方、労働者党(Parti des Travailleurs)は選挙への候補者擁立を決定している。
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