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通信原稿で思い出した、チベット高原で起こした恐怖のバイク事故、生田目明美さんのすごさ

賀曽利隆

■「地平線通信2月号」の青木明美さんの記事は、じつに興味深く読ませてもらいました。日揮のみなさんにはほんとうに良くしてもらったのですね。ハシ・ルメルのガス田のプラントだと思いますが、分岐点から国道1号をもう3、40キロも走れば、ガルダイアのオアシスに到着していただけに残念でした。1990年代に入ってからのアルジェリアは内戦状態に突入していたので、日揮の対応も、日本大使館の対応も仕方なかったのでしょうね。

◆ぼくが初めてバイクでサハラを縦断したのは1972年。ナイジェリアのラゴスからアルジェリアのアルジェまでの6000キロをバイクで走りました。日本人ライダー初の「サハラ砂漠縦断」を成功させると、日本大使館でバイクをあずかってもらい、3か月あまりをかけて今度はヒッチハイクで2ルートでサハラを縦断しました。真夜中、サハラ砂漠のド真中を歩いていても車に乗せてもらえたほど、アルジェリアは安全な国でした。

◆1988年にはバイクでの「サハラ砂漠往復縦断」を成功させましたが、このときもアルジェリア内の2本のサハラ縦断路を走りました。サハラでは野宿でしたが、治安に不安を感じることは一度もありませんでした。そんな安全なアルジェリアが1990年代に入り、一気に内戦状態に突入したのには正直、驚かされました。

◆内戦終結直後の2004年にアルジェリア内のルートでサハラを縦断したのですが(ぼくにとっては14度目のサハラ縦断になります)、以前のような安全なアルジェリアではなく、各所に軍が駐屯し、サハラ縦断路には検問所があちこちにでき、とくに治安の悪いエリアでは軍の護衛のもとで走るというような状態でした。まだまだ臨戦体制下にあるといったアルジェリアでした。

◆ところで青木明美さん、旧姓生田目明美さんとは、東京の旅行社「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」で一緒にチベットを走りました。聖山のカイラスを目指したのです。ラサに着いたのは1999年8月3日。ポタラ宮に隣り合った「航空酒家」に泊まりました。

◆チベット人ガイドの女性からは英語で「今日は絶対にアルコールを飲まないで下さいね」と念を押されたのにもかかわらず、ラサに着いた喜びで夕食後、「もう、トゥデイ(今日)じゃなくてトゥナイト(今夜)だから、さー飲もう!」と「ラサビール」で乾杯。さらに次々と「ラサビール」をあけました。ラサは標高3650メートル。この高度で何本ものビールを飲んだせいで、翌日はすっかり高山病にやられてしまいました。息苦しさや頭痛だけでなく、40度近い高熱まで出たのです。

◆翌々日、中国製125ccのオフロードバイクにまたがり、ポタラ宮前の広場を出発。チベット第2の都市、シガツェに向かいました。その間は270キロ。ぼくの体調は最悪でウツラウツラ状態。シガツェは標高3836メートルで富士山よりも高くなります。高山病はよけいにひどくなりました。当時はシガツェを出ると際限のないダートがつづきました。

◆シガツェを出てからわずか27キロの地点で、先頭を走っていたぼくは道のギャップがまったく目に入らず、ノーブレーキでそれに突っ込んだのです。バイクもろとも30メートルほど吹っ飛び、恐怖の顔面着地。しばらくは意識を失いました。気がついたとき、最初はバイクでサハラを走っているのではないかと思ったほどです。「今、チベットに来ている」と、わかるまでには相当、時間がかかかりました。すぐにかけつけてくれたサポートのチベット人スタッフたちは、ぼくがピクリとも動かなかったので、「カソリさんが死んだノ」と思ったそうです。

◆しかしこのあたりが、今までに何度も修羅場をくぐり抜けてきた「不死身のカソリ」の強みというもので、起き上がると、自分で自分の体を確かめました。首を強打したので、首はほとんどまわらない状態でしたが、骨は折れていないと判断しました。顔面血だらけでしたがこれも口の中を切ったもので、そうたいしたことではないと判断しました。顔面着地した瞬間に吹っ飛んだヘルメットのバイザーが絶好のクッションになってくれたのです。

◆顔面を地面にたたきつけたとき、無意識に顔を護るために、右手で地面をついていました。そのため右手首がみるみるうちに腫れ上がりましたが、これも「骨折はしていない」との判断。バイクのダメージも大きく、チベット人スタッフたちはグニャと曲がったフロントホークを外し、ジャッキを使って直したりして、短時間でなんとかまた乗れるような状態にしてくれたのです。

◆このような状態で4000メール級の峠をいくつも越えていったのです。メンバーの大半が高山病で青息吐息の中、生田目明美さんはまったく普段通りで元気そのもの。信じられないほどスゴサでした。夜になると、ぼくの目の前でビールを飲みながら、「どう、カソリさんも、飲むー?」と誘ってくるのです。このときのカソリは生きるか死ぬかのような状態で、東京に戻るまでビールはもちろん、一滴のアルコールも飲めませんでした。

◆それから10年後の2009年には「チベット横断7000キロ」を走りました。敦煌から南下し、長江の源流地帯を通り、風火峠(5010m)、タングラ峠(5231m)、第二九山峠(5170m)と、3つの5000メートル級の峠を越えてラサに到着しました。5000メートル級の峠を越えた後のラサでは、「えー、こんなに空気が濃かったのか」とビックリ。ラサからは西へ、西へ。ギャムツォ峠(5248m)を皮切りに全部で6つの5000メートル級の峠を越え、中国西端の町、カシュガルへ。この2009年の「チベット横断」はカソリのリベンジ戦のようなもの。カシュガルのエイティガール寺院前の広場に着いたときは、「どうだ、生田目明美よ!」と、日本の空に向かって叫んでやりました。
ということで青木明美さん、子育てが終ったら、今度は一緒にサハラを走りましょうね!

(地平線会議 http://www.chiheisen.net/
 「地平線通信」407号(2013年3月13日発行)より転載)