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アルジェリア日本人会のこと

日揮アルジェ事務所 水品潔

現在(2009年8月)アルジェリア日本人会に参加している日本企業はJICAを含んで14 社を数えます。日本人会が現在のかたちになるのはアルジェリアでテロが激しくなって日本企業の事務所や支店の日本人駐在者たちがパリに「避難」していた1995年くらいのことです。アルジェに駐在していた日本企業の支店や事務所はテロのリスクを避けてパリに避難し、パリで情報交換のために定期的に会合を開こうということで始まったものです。ですから日本人会と言っても当時の参加企業はパリに事務所や支店があってアルジェリアで活動していた商社を中心とした8社のみであり、アルジェリア現地の情勢を反映して親睦会的な要素はほとんどありませんでした。

わたし自身は1995年の冬から日揮のアルジェ事務所の代表としてパリに滞在し弊社パリ事務所の一角を借りで仕事をしていました。いまもアルジェ日本人会の会員ですからその当時からいる一番の古株ではないかと思います。パリ駐在当時の一番の関心事は「いつになったらアルジェに帰れるだろうか」でした。わたしがアルジェリアを最後に離れたのは1994年の夏のことでテロが激しさを増し、外国人が標的になってからもさらに8ヶ月ほど東部工業地帯のスキクダに4人の仲間と軍による24時間警護を受けながら客先の宿舎に滞在していたのですが、スキクダの近郊の山岳地帯に軍用ヘリがテロリストのキャンプを狙ってロケット弾を撃ち込んだり、戦車が列をなして「テロリスト掃討作戦」に出ていく光景を日常的に見るようになってさすがにこれはあぶないなと肌で感じ始めました。夏になって客先から「大事に至らないうちに引き上げなさい」と言われたことがアルジェリアを離れる決心につながりました。真夏の暑い日ざしのなかでスキクダを後にし、コンスタンチーヌ空港に続く100キロほどの山中の道を前後に付いた軍のエスコートと一緒に走ったのですが、途中直前の戦闘で焼かれてまだ煙が出ているトラックの脇を通ったのを昨日のことのように思い出します。

わたしが滞在していたスキクダは大変美しい海岸線をもったところで、ある休みの日外出禁止をやぶって軍のエスコートもなしにこの海外線を20キロくらいひとりでドライブしたことがあったのですが、翌朝すぐに軍司令官に呼ばれこっぴどく怒られました。「今度やったら命の保証はしない」と司令官は言いました。わたしはスイマセンと言い、また内心どこかでちゃんと監視しているのだなと思ったりしましたが、その時の軍司令官の真剣な表情にわたしは「本当に危険なところにいるということだ」と改めて思ったものでした。当時わたしが担当していたプロジェクトはまだ完全に終わっていずスキクダに残っていたわけですが、わたし自身はいったんアルジェリアから引き揚げたら戻るのは難しくなる、と感じていました。現地にいるからリスクがあってもそれを計算することができるけれども、アルジェリアから引き揚げたらそのリスクに対する「なまの情報と状況を判断する勘」みたいなものが薄れてしまって帰るタイミングをはかることがより困難になる、という感じを持っていました。実際わたしが本格的にアルジェに戻ったのはそれから4年後の1999年の夏でしたからほとんど4年にわたってパリから現地従業員だけで運営していたアルジェ事務所を見ていたのです。その4年の間に時々はアルジェに飛び様子を見に行きましたが、当時の街を行くアルジェリアの人々の暗い表情をいまでも思い出します。1997年ごろアルジェ事務所の現地従業員全員をチュニスに呼びわたしもパリから合流してみなで食事をしたり散歩したりしたことがあったのですが、現地従業員たちも暗いアルジェを束の間離れてリラックスしていました。それから見ればいまのアルジェの雰囲気はすっかり明るくなり当時からみれば隔世の感があります。

わたしがパリにいた間どのくらいの回数の日本人会が開かれていた定かな記憶にないのですが、とにかくこの時期のパリでの日本人会の一番大きな主題はアルジェリアの治安情勢についての情報交換でした。会合は当時アルジェに駐在しておられた荒日本大使を交えて現地の情勢について荒大使から現地の生の情報をお聞きし、各社のアルジェリアに対する方針やスタンスについての意見交換が重要な議題でした。当時荒大使はこの会合への参加のためもあって時々パリに出て来られ、パリのHOTEL NIKKOの日本レストラン「弁慶」を使って会費制で会合を開きました。いわばこのパリ会合はアルジェリアのテロの副産物でしたから、いきおい話題はアルジェリアの治安状況で「くらーい」雰囲気の会合でした。それでも多い時で10名くらいが集まっていました。アルジェを離れてパリに拠点を移した日本企業のアルジェリア関係者はけっこう多かったということです。荒大使が離任され故渡辺(紳)大使が代わってアルジェに赴任された1996年からあと日本人会がアルジェに戻るまでの数年間日本人会はまだパリで開かれていて、渡辺大使はこの会合を「亡命日本人会」と呼んで年に2〜3回出席されました。

日本人会のパリでの会合を廃止しアルジェに戻ったのは2002年ごろだったと思います。日本企業の支店や事務所の日本人駐在が再開されてきたし、パリにはアルジェ関係者が少なくなりました。その時期は伊藤忠さんが幹事で、会合は伊藤忠さんのアルジェ事務所で開かれました。伊藤忠さんのご厚意で日本人コックさんの作る特製のお弁当が出てそのお弁当を楽しみに駐在員たちが集まったものです。この形はかなり数年続きました。日本人会がアルジェに戻ってから治安の状況と情報の共有のため日本大使館の安全担当官の方々からレポートをいただくようになりそれが現在も続いています。治安が格段に改善したいまもやはり治安状況は大きな議題のひとつであり続けていますが、パリ当時から見れば当時の暗さはなく、次第に仕事の上の情報交換や明るい話題も増えてきました。

現在は月一回原則として第3日曜日の昼に会合を開いています。数年前から幹事は持ち回りとなりアルジェに拠点を置く日本企業が2ヶ月づつ幹事となり会合をアレンジします。日本大使館の方々も含めて現在では平均15名前後が出席しています。時には神谷大使ご自身も出席されます。通常議題は、治安情勢(大使館安全担当官の報告と質疑応答)、文化事業などの催しもののお知らせ、企業活動にかかわりのある法律の改定や議論などが中心で、ときには共同で検討すべき項目について分科会をもって日本人会例会のほかに会合をもつこともあります。もっとも分科会は夜開くので議論は早々に終わらせてちょっとしたお酒つきの晩餐会になります。
現在ではアルジェの治安はずっと改善されましたから、アルジェに新たにオフィスを開く日本企業もあり、またすでに活動している商社などの駐在員も増えましたし日本人会の会合も20人近くを数えることがあります。当初会合の場所は幹事会社によってことなりはしたもののしばらく前まではだいたいエルビアールのインド料理店でしたが、ここ一年くらいは昼間はほとんどお客さんのいない韓国料理店が会場となっています。この韓国料理店には会議卓のような長くて幅のあるテーブルがあって食事をしたあと会合を開くのに好都合であり、インド料理店などからみればより広いスペースが確保できるのですが、それでも参加者の増えたここ半年くらい前から手狭になり会合の最後に「そろそろもっと広い場所をさがしましょうか」という話題も出るくらいです。会合の写真を載せてありますが、これはこの韓国料理店での会合の折に撮影したものです。(左列中央が神谷日本大使です)

会合は通常毎月第3日曜日の12時集合で13時30分まで開くのですが、まず昼食を皆でとって、日本人だからすぐに(30分もたたぬうちに)食事を終わって片付けをし、配布する資料があれば配布して幹事の司会で始まります。最近の2〜3回で議題となったのは、日本とアルジェリアの貿易協定や租税条約締結、5月の日本伝統文化展、6月の国際見本市出展など、また商業省や税務の「査察」についての情報交換などでした。もっともまじめなのは日本大使館の「治安情勢報告」で、これはだいたい冒頭に話されますが、これは前月に起きたテロ事件の発生件数などの数字データとその事件の解説が2ページくらいに大変きちんとまとめられているレポートがありそれが資料として配布され大使館の安全担当官ないしその代理のかたから説明があります。このレポートは毎月のものですから数年前にさかのぼったデータとしてまとめてありアルジェリアの治安状況を統計として把握するにも大変役に立つ資料です。もちろん治安情勢が中心の話題であることはそれだけまた不安がある、ということですから、こういう資料に皆が関心を示さなくなるくらいになるといいと思っています。その代わりにもっと他の国にあるような親睦会や文化的催しなど企画できるようになれば平和がやってきた、と実感するでしょう。アルジェに駐在する日本人は家族を帯同するひとたちもずいぶん増え、子弟の学校のことなど話題に上ることもあります。ただアルジェリアのマーケットの様変わりやいまも残る治安上の不安、日本企業のシェアの狭まりから、テロの時代がくる以前にあったような家族も含めた規模の大きな日本人会になるにはまだ何年もかかるのではないか、あるいはそのような時代はもう来ないのではないか、と思う今日この頃です。